Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

思いはいつも南三陸町

あの日、私は家族の安否を気にしながら何度も携帯で呼び掛けたが、応答は無かった。南三陸町の情報は何一つ報道されず成す術が無かった。2日後にアナウンサーが切迫した声で叫んだ。「南三陸町にかつて無いほどの被害が出ている模様です」「ああ、やはり」私は思った。母の住む実家は船着き場からわずか十数メートルの位置だ。これだけの津波がくれば一瞬で破壊されてしまっただろう。3日目に入り、ようやく目にしたテレビの映像は私の不安を一層かき立てた。気仙沼市は湾内に流入した重油が炎上し、岸まで炎に包まれ、名取市では数キロメートルに亘って、横一直線に押し寄せた津波が内陸まで到達し、三陸自動車道路が防波堤となった。数日後に親戚から連絡が入った。「無事だから早ぐ迎えに行げ」。私は早朝から5時間並んで調達したガソリンを入れて国道4号線を北上し、登米市から志津川に至るコースを進んだ。ようやくたどり着いた志津川。しかしそこは道路を塞ぐ家屋の残骸や折れ曲がり重なる自動車で埋め尽くされ、廃墟と化していた。その情景は、一瞬で網膜にモノクロの画像を焼き付けるかのように飛び込んできた。「今、俺はどこを走っているんだ?」高い建物が全く見えず、遠くに光るものが見えた。海だった。数キロメートル先にある海が目の前ほどの距離に感じられ、不思議で不気味な光景が広がっていた。車を止めて息を整えると、左側の高台に白亜の志津川中学校が見えた。更に進むと赤茶けた鉄骨に無数の瓦礫が絡みつき、無残な姿となった南三陸町防災対策庁舎が現れた。ここでは町職員の遠藤未希さんが命をかけて避難を呼びかけ、その放送を聞いて多くの人々が救われていた。

やっとのことで歌津に入ると津波で抉られた道路の隣に、自衛隊が非常用道路を建設していた。知人の先導で地元の生活センターに着くと、母はホールの床に敷かれたゴザの上に座っていた。パーテーションは一切無く、そこは避難した多くの住民で溢れかえっていた。母は沖合いに停泊した巡視船から、ヘリコプターで投下された物資を食べていたと言った。この地に嫁いで数十年間、毎日生活を共にしてきた地元の人々と励まし合い、復旧しない電力を外の発電機でしのぎながら、僅かな食料と給水車からの水で生きのびていた。お世話になった全ての方々に涙ながらに何度もお礼を述べて、私と母は再び戻ることのない生活センターを後にした。その途中に高台から見えた湾の風景は余りに美しく、荒廃した地上の姿とは比較にならないほど穏やかだった。

湾の中央に見える島には小さな白波が見え隠れしていた。濃紺の海面は群れ飛ぶ鴎の鳴き声に包まれ、夕刻のセピア色の陽差しによって変幻自在に煌めいていた。眼下に広がる情景は、いつも心の奥に懐かしさを呼び起こしてくれる故郷の海、そのものであった。遙かなる古から変わらない美しさをたたえてきた懐かしい海の風景が、そこに在った。

自己紹介や手記の背景

震災の風化を少しでも防止したいと思い、今回応募することにしました。あの時からもうすぐ10年を迎えます。経験したことのない自然の猛威に見舞われた私たちは、先の見えない不安の中で、日々の生活をどうすれば良いか必死に探る毎日でした。令和2年のここに至ってようやく、生活に落ち着きが感じられるようになりました。母は元気に過ごしています。地元の方々には心から感謝しています。しかし、この震災で失われたものの大きさは言葉にできません。何にも代え難い人命、そして地域社会そのものが大きく姿を変えてしまいました。今は自分ができることをしながら、ゆっくり一歩ずつ前に進むしかないと思っています。

思いはいつも南三陸町

自己紹介や手記の背景

震災の風化を少しでも防止したいと思い、今回応募することにしました。あの時からもうすぐ10年を迎えます。経験したことのない自然の猛威に見舞われた私たちは、先の見えない不安の中で、日々の生活をどうすれば良いか必死に探る毎日でした。令和2年のここに至ってようやく、生活に落ち着きが感じられるようになりました。母は元気に過ごしています。地元の方々には心から感謝しています。しかし、この震災で失われたものの大きさは言葉にできません。何にも代え難い人命、そして地域社会そのものが大きく姿を変えてしまいました。今は自分ができることをしながら、ゆっくり一歩ずつ前に進むしかないと思っています。

連載東北から
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