Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

壁を作っていた自分

米津勝之

私は1995年1月17日住んでいた兵庫県芦屋市で被災し、当時7歳だった長男と5歳だった長女を奪われた。震災直後は奪われてしまった存在の大きさに、自分に突然やってきた家族の死という現実にどう向き合えばよいのかわからないままに過ごしていた。1年という時間のあと、長男・長女の命を受け継ぐ者としてできることが何かを探していく道を試行錯誤しながら歩んでいく決意をした。

阪神淡路大震災から26年目の1月17日。もう26年、いやまだ先日のことのように思い出される日々を思えばまだ26年といえばよいのだろうか。

東日本大震災が起こった後、私の心に浮かんだことは「この大きな出来事によってすでに15年以上の時を過ぎた阪神淡路大震災が歴史の記憶の片隅に益々追いやられるのではないか。」という危機感だった。阪神淡路大震災を伝えていく・語り継ぐという活動に微力ながら努めていた私。東日本の被災地に様々な支援や関わりを持とうとする人々を後目に、私は勝手に阪神淡路大震災に頑なに拘り、東日本大震災と距離を置くことに自分の存在意義を見出していた。自分で無意識に壁を作っていたのだ……。

求められた芦屋の小学校での震災学習でも阪神淡路だけを語り、東日本についての報道も斜め読みしていた私の前に3年前ふとしたきっかけで現れた岩手の高校生たち。縁あってその高校から阪神淡路について語って欲しいと依頼を受けて、初めての岩手で初めて高校生に語る機会を得た。東日本の地で今さら阪神淡路大震災の話をしても通じるのか大きな不安を抱える中で……。

話しながら感じたことが私を変えた。高校生たちの熱い眼差し、先生の涙。何日か経って届いた全校生の感想文に記された福島から移住してきた生徒の苦しみ、身近な人を失った生徒の哀しみ、そして私が紹介した芦屋の小学生たちとの学びに共感する多くの声。たくさんのことを学び、頂いたのは私だったのだ。同時に無意識に壁を作っていた自分の小ささに気づかせてくれた岩手の高校生たち。

その後、精力的に東日本大震災を書いた書籍やレポートを読んでいくうちに出会えた『あわいゆくころ』。その場にいること、向き合うこと、体験-非体験の壁を越えることの難しさと大切さを改めて教えられた。阪神淡路の歩みを東日本に伝え、共にすることでこれからに向き合い歩いていきたい。震災に留まらず、様々な出来事に想像力を働かせながら近づいていきたい。自ら作った壁を越えたい。

防災学習で著名な兵庫県立舞子高校元教諭と一緒に東北を巡る計画はコロナで頓挫したが、それは未来に少し先送りされただけ。コロナ禍に関わらず26年が経った芦屋の小学校での学びは広がり、直接知らない子どもたちは過去を知り、未来に向き合おうとしている。東日本大震災十年を迎えるに当たり、様々な人たちとのつなぎ手でありたいと強く思う。

自己紹介や手記の背景

1995年1月17日、兵庫県芦屋市で被災、自宅は全壊し7歳の長男と5歳の長女が逝ってしまいました。生き残った者として何ができるかの試行錯誤を重ねながら26年が経ちました。
東日本大震災が起こった折は転勤でさいたま市に住まっており、都内で会議に参加していた私は帰宅難民になりました。
手記にも書いたように壁を作っていた私を変えたのは様々な出会いでした(その一人が瀬尾夏美さんです)。
過去と現在と未来を様々な人々とつなぎあえるつなぎ手になる覚悟を10年目を迎える3月11日に新たにしたいと思います。

壁を作っていた自分

米津勝之

自己紹介や手記の背景

1995年1月17日、兵庫県芦屋市で被災、自宅は全壊し7歳の長男と5歳の長女が逝ってしまいました。生き残った者として何ができるかの試行錯誤を重ねながら26年が経ちました。
東日本大震災が起こった折は転勤でさいたま市に住まっており、都内で会議に参加していた私は帰宅難民になりました。
手記にも書いたように壁を作っていた私を変えたのは様々な出会いでした(その一人が瀬尾夏美さんです)。
過去と現在と未来を様々な人々とつなぎあえるつなぎ手になる覚悟を10年目を迎える3月11日に新たにしたいと思います。

連載東北から
の便り