Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

「関係性の被災」を紡ぐマイタウンマーケット

「すでに仮設住宅の現場に入っているアーティストがいる」。そうきいて、福島県新地町を訪れたのは、2011年6月のことだった。福島県新地町は宮城県との県境にある漁師町だ。津波の被害は大きく、町の約5分の1が浸水していた。目的地の小川応急仮設住宅へ向かう道すがら、海の近くを見て回った。見通しのよい平野が広がっていたが、そこにはかつて住宅やお店があったのだろう。カーナビで確認しなければ、そこに何かがあったことがわからないほど津波で一面流されていた。遠くに工事車両の音がきこえる。それ以外は何もない、その静けさが強く印象に残った。
山側にある公園の敷地内に小川応急仮設住宅は建っていた。仮設住宅は、いつもまちの中心部から離れた場所や道路沿いの空き地、学校の校庭や公園にあった。生活感のない場所に差し込まれるようにグレーのプレハブの建物が立ち並ぶ。
訪れたわたしたちを美術家の北澤潤さんが迎えてくれた。頭にタオルを巻き、胸には「キタザワ」と名前を書いたテープを貼っている。黄色いビブスには「新地町 災害ボランティアセンター ニーズ班」と書かれていた。震災後の現場で見かける典型的なボランティアの姿そのものだった。
北澤さんは2011年4月に知人を介して新地町を訪ね、その翌日からボランティア活動を開始していた。震災以前から地域の人々との関係を紡ぐアートプロジェクトを各地で手掛けていた北澤さんは、震災後にいても立ってもいられず、東北の沿岸部へ向かったのだという。
新地町では、午前はボランティア活動をし、午後は避難所の小学校に通った。それは「アーティスト」としての活動ではない。ただ、そこに「いること」からはじめていった。やがて避難所の一角で「絨毯」を編みはじめる。それはプロジェクトをはじめるときに、人と人が出会うベースをつくるという過去の経験から導き出した方法だった。北澤さんは当時の心境を次のように語っていた。

避難所って、例えば「炊き出しする人=支援者」と「受け取る人=被災者」といった関係性が、常に交わされている空間です。そのときに僕が「絨毯を持ち込んで、編んでいたい」と言ったのは、誰かのためにやるという振る舞いだけではなく、何かをひたすらやっている人がいる状況も必要だと思ったからです。その先に関係性を超えて「共につくる」ことも可能になるんじゃないかと。もちろん、多くの人が過酷な環境で生活をしているなかでそんなある種無意味なことを始めるのはとてつもなく怖かったです。でも、避難所を運営する方のおひとりが「そういうのが必要なのよね」と言ってくださった。それは、自分にとってとても大きかったですね。(*1)

絨毯づくりをきっかけに知り合った子供たちとは、避難所で「小さな喫茶店」を開いた。ひとりの女の子の発案からはじまった2日間の取り組みだったが、この経験が仮設住宅へ移行したのちの活動の端緒となっていく。
避難所から仮設住宅へ移動すると、今度はカラーテープを使い、ゴザづくりを集会所で開始した。こうした作業を介して、仮設住宅の住民だけでなく、地域内外の支援者も含めた人々と関係を築いていった。
6月に小川応急仮設住宅を訪れたとき、集会所では、このゴザづくりが行われていた。住民やビブスを着た支援者の人たちが混ざって、カラーテープを編んでいた。身長を超える高さのゴザを編むための装置のようなものもある。単純作業というよりは、集会所での組織的な活動が展開されているように見えた。
入口のスロープには、緑色で「マイタウンマーケット」という文字が並んでいた。ちょうど翌月に開催する第1回の準備をしているのだという。スロープに貼り付けられている1枚のドローイングには、仮設住宅の間にカラフルなゴザが敷かれ、市場のようにいくつもの店が立ち並ぶ風景が描かれていた。


2011年4月26日 福島県相馬郡新地町 避難所で絨毯を編んでいる様子(撮影:北澤 潤)

一人ひとりと「ともに」つくる

2012年12月。小川応急仮設住宅のマイタウンマーケットに訪れた。2011年7月20日の第1回から数えて6回目の開催だった。入口に着くと、手持ちのお金を地域通貨の「タウン」に交換する。あとは、このタウンを使って自由にお店を利用する。
ポラロイドカメラでポートレート撮影をしてくれる「写真館」。手づくりのポストにハガキを投函すると本当に届く「郵便局」。子供の運転手がリアカーで運んでくれる「タクシー」。マイタウンマーケットの歴史を振り返る「歴史館」もある。クライマックスは「劇場」で繰り広げられるヒーローショー。手づくりの「マイタウン=町」の「マーケット=市」。その風景はさながら地域のお祭りのようだった。店員は子供たちが中心を担い、その動きを大人が支えている。むしろ、大抵の大人たちは参加者として楽しんでいるように見えた。
毎回、マイタウンマーケットは集会所に子供が集まり、お店の企画を出すことからはじまる。企画書をつくり、どんなお店をなぜつくりたいかをみんなの前で発表。それに大人が混ざって、企画の実現を目指す。マイタウンマーケットの特徴は、子供の発想を中心に物事が展開していくつくり方にあった。


2014年8月9日 福島県相馬郡新地町 第11回マイタウンマーケットの風景(撮影:伊藤友二)

北澤さんは震災後の状況を「関係性の被災」と語っていた。震災が断ち切った関係性は、必ずしも震災以前のものだけではなかった。被災者や支援者、津波に家を流されたか、流されていないか……。震災後に現れたさまざまな線引きは、人と人との関係性を変えた。この目には見えにくい「関係性の被災」は、子供たちの友達関係などにも及び、強いストレスを与えていた。何よりも、避難所の「小さな喫茶店」づくりからはじまり、まず関心を示して集まってくるのは子供たちだった。
マイタウンマーケットで北澤さんはかかわったメンバーの発想を深め、実現に導くことを促す問いかけ役だった。たとえば「役場」をつくりたいという子供がいれば、役場はどんな場所なのか? どんな人がいるのか? と問いかける。そうすることで、もう一度、自分のなかで企画の実現に向けてイメージを膨らましていくことができる。また、回数を重ねることで、企画がマンネリ化するという課題も現れてくる。実現可能なプランばかりが議論されそうなとき、その視点をずらし、広げるための問いを投げかける。そして、ふたたび場が動き、何かをつくりはじめれば、一緒にやる。北澤さんは、それをアーティストが主導して物事を組み立てる「決める技法」に対して、「待つ技法」と名付けていた。子供たちに問いかけ、企画に結んで、場を開く。その繰り返しで、マイタウンマーケットは動いていった。
マイタウンマーケットについて語るとき、常に主語は実行委員会だった。マイタウンマーケットはマイタウンマーケット実行委員会がつくっている。そうして北澤潤というアーティストの記名性を消そうとすることは、自らもマイタウンマーケットをつくる「ひとり」である態度を示していた。子供たちに問いかけることは、企画を自らで考え、実現していくことで、マイタウンマーケットを自分のものとしていくための方法でもあった。
それは仮設住宅に入居をはじめた住民たちの心持ちとも呼応していた。「みんなが参画するようにやっていくにはどうしたらいいだろうね。最初は北澤くんが7割、ほかが3割ではじまってもいいよな」(*2)。第1回のマイタウンマーケットの開催前に、北澤さんは小川仮設住宅の自治会長と副会長に、そう言われていた。
避難所では支援者の人たちによって生活が支えられてきたため、仮設住宅での生活がはじまると自分たちの「暮らし」を自分たちの手でつくるという気持ちが生まれたのだろう。震災という状況に後押しされ、いつもよりもプロジェクトが実現していくスピードは早かったそうだ。
マイタウンマーケットの第6回の「ヒーローショー」で、北澤さんは子供に混ざってアカレンジャーとして出演した。北澤さんが会場を歩いていれば、誰かしらに声をかけられるが、すべての場を仕切っているわけではない。その場を動かす誰もが自らの役割を全うし、存分に楽しんでいるように見えた。


2012年12月1日 福島県相馬郡新地町 ヒーローショーの様子

根付いたからこそ、終わること

マイタウンマーケット開始から1年が経つ頃、マイタウンマーケットをほかの仮設住宅へ「キャラバン」する企画が立ち上がった。仮設住宅への入居が一段落し、住民や支援者の人たちの目が周囲の仮設住宅の活動にも向くようになった頃だった。あっちの仮設住宅では、こういう活動をやっている。そうした情報が飛び交うとき「何であっちの仮設だけなんだ」という嫉妬もときには入り混じっていた。支援側では、ひとつの仮設住宅での「成功例」を、ほかの仮設住宅へ「仕組み」として広げることが話題になる時期だった。その意味で、被災者や支援者、地域内外の人たちがともにつくりあげていたマイタウンマーケットは、そのモデルケースとも言えた。
2012年1月。同じ新地町の仮設住宅でマイタウンマーケットキャラバンが開催された。活動の発表会、カフェやゴザ編みの体験。マイタウンマーケットの「定番」を体験として提供したキャラバンは好評を博した。
だが、当初目論んでいたように、この場所でマイタウンマーケットが根付くことはなかった。実行委員会のメンバーが、開催までのプロセスを共有していなかったからである。ゴザを編み、企画を発表し、議論を重ね、お店をつくる。その作業を介して、自分たちなりのマイタウンマーケットをかたちづくってきた。その時間は誰にも渡すことができないものだった。それから、マイタウンマーケットは仮設住宅外の人たちの参加しやすさを意識しながらも、自分たちの関係性を丁寧に紡いでいくことに専念するようになった。
2014年8月。マイタウンマーケットは第11回が最後の開催となった。小川応急仮設住宅は復興公営住宅の整備によってその役割を終え、翌年に解体。マイタウンマーケットのメンバーは仮設住宅を出て、それぞれの新たな日常をはじめていった。
アートは万能ではない。ほかの分野の手法に比べれば汎用性は少ないのかもしれない。誰もが使える「仕組み」にはなりにくい。それゆえに固有名をもった一人ひとりと向き合う術になりえ、かかわった人たちに強く作用するものでもある。
2020年になって、北澤さんが2019年に東京で展開したプロジェクトにマイタウンマーケットにかかわったメンバーが手伝いに訪れた話をきいた。当時小学生だった子供も、いまや成人している。久しぶりに会ったにもかかわらず、現場の動きにいち早く順応し、マイタウンマーケットの話をすれば鮮明に思い出せたという。
ひとつの活動が終わったとしても、そこで獲得した経験は個々人に残っていく。そして、どんな状況にあっても新たな何かをつくろうとする経験は、日々の生活のなかで生きる創造的な術を育むのではないだろうか。

連載東北から
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