Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

知らない

むろうち

あの頃のことはよく知らない。覚えていないのではない。知らないのだ。訪れたその日は、新宿の職場から自宅までは帰れず、都バスを2時間待った挙句、動き出した大江戸線で東麻布の祖父の家に帰り、深夜自宅に送ろうと叔父が車を出してくれた。結局、一ノ橋ジャンクションで動けなくなり、3時間かけて東麻布まで戻った。深夜、会社からは翌日は臨時休業とのメールが来ていた。祖父の家からよく見える東京タワーは、先端が曲がり消えていた。でも、いつもは0時で消える東京タワーがその日は午前3時を過ぎても消えなかった。心強かった。覚えてることといえば、そのくらいだ。

翌々日からは怒涛だった。間引き運転になった山手線は、すし詰め状態なんて言葉は甘いくらいで、全ての人が全ての人に押し潰されて酷い顔をしていた。目の前の女性のポニーテールが顔に当たって気持ち悪かった。お弁当を入れたトートバッグが、手から離れ、人たちの中で浮いていた。

津波の状況も、知らなかった。ニュースは見ていなかった。見る時間がなかった。秦野や海老名から通えないスタッフのために、わたしは百貨店で朝から晩まで休みなしで店頭に立った。この時ほど、地方在住者を恨んだことは他にない。地方民は東京に出てくるな、東京は都民のためのものだ、本当に迷惑だ。そんな怒りで満ちていた。被害の状況に気を向ける余裕はなかった。テレビを見る時間がなかった。新聞も読まなかった。

福島第一原発が爆発したとは何かで耳にした。それがどういうことかは分からなかった。知りたいと思う余裕もなかった。津波が来たことも聞いた。どんな被害かは知らなかった。だってわたしには関係のないことだから。とにかく、売り上げを作らなければ。店頭を守らなければ。怒りに満ちながら毎日新宿に通った。同じ系列の仙台店の内装のシャンデリアが大きく揺れる映像が度々ニュースで流れていた。その様子には背筋が凍った。わたしの被害の実感は、それだけだった。

自己紹介や手記の背景

被害の状況は、10年たった今でもよく知りません。私の状況が知る余裕を許さなかったことに加え、その後PTSDの予防のためにその瞬間の映像がメディアから消えたこともその理由だと思っています。
数年前、この震災を契機に存在が消えてしまったパブリックアートのためのアートプロジェクトの運営をしていました。しかし、本当のことを言えば、私にとって大事だったのはパブリックアートそのものだけで、震災について思いを馳せることはありませんでした。そのことを、今は後悔しています。

知らない

むろうち

自己紹介や手記の背景

被害の状況は、10年たった今でもよく知りません。私の状況が知る余裕を許さなかったことに加え、その後PTSDの予防のためにその瞬間の映像がメディアから消えたこともその理由だと思っています。
数年前、この震災を契機に存在が消えてしまったパブリックアートのためのアートプロジェクトの運営をしていました。しかし、本当のことを言えば、私にとって大事だったのはパブリックアートそのものだけで、震災について思いを馳せることはありませんでした。そのことを、今は後悔しています。

連載東北から
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