Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

被災後10年目の日常

ちーたま

早朝の仕事を終えて、荒浜へ行く。週1回のルーティンワーク。

震災時、仙台の丘陵部に住んでいた私は、停電、断水、病院や商店の閉鎖といった被害を受けて、その時はそれで本当に大変だったけれど、1か月過ぎたころから、とにかく何かしなくちゃと、NPOの支援物資倉庫でボランティアを始めた。そこには仙台の沿岸部で被災した方々が、連日訪れていた。その中で親しくなったのが荒浜・深沼海岸の方々だった。

その倉庫の働きも、その年の秋には閉鎖され、1年後の春、農業支援のニュースを聞いて、荒浜に行ってみた。がれきは片付けられていたものの、まだ何も無い場所で、ビニールハウスを建てようとしている人たちがいた。そこから、農家の方々との関わりが始まった。

震災から数年は、県外からも多くの人が来てくれたし、めちゃめちゃになった農地に、何が作れるのかを試すために他県の農協や様々なプロジェクトも協力してくれていた。土が合わずにできなかったもの、時間が経つにつれてボランティアの人数も減り、人手が間に合わなくなったプロジェクトも。「あとは、頑張って下さい」と言われても、どうしたらいいのか…。そんなやりきれなさも体験した。

毎年大きな災害が起きる。東日本大震災は、それらと比べても2桁か3桁違う規模の大きさだったとは言え、人の記憶は薄れるものだ。それなら、地元の人間が頑張るしかない…そう思った。大きなことはできないけれど、ずっと一緒に歩き、一緒に考え、一緒に悩む。それを続けて行こうと始めたのが、週1回の荒浜の農家のお手伝い。

大したことではない。トラクターには乗れないし、軽トラも運転できない。でも、草取りはできるし、種まきや田植えの手伝いなど、人手のいる作業も沢山ある。震災から数年は、なかなか市場の規格に合う作物ができなかったこともあったが、そういう規格外品を私の主婦仲間でまとめ買いしたこともあったし、今でも何人かはこの荒浜のコメを定期購入してくれている。

今はこの週1回の荒浜通いが、被災後の私の日常でもある。コロナ禍で、ニュースがそれ一色になった時も、この畑に来て心を落ち着かせることができたし、何より食料を作っているので、スーパーからコメが消えてもパニックにはならなかった。

そして、毎月11日前後には、荒浜の方々がかつて住んでいた場所まで行き、慰霊碑にある知り合った方のご家族の名前を指でなぞって祈ってくる。ここはそういう場所であり、大切な場所でもある。

自己紹介や手記の背景

仙台市内でヘルパーをしています。震災当時は「とにかく何かしなくちゃ」と動いていました。でも、若くもないし、力もなくて、自分にがっかりしていました。ある時から、自分にできるやり方を模索する中で、地道に続けるという関わり方を見つけました。

被災後10年目の日常

ちーたま

自己紹介や手記の背景

仙台市内でヘルパーをしています。震災当時は「とにかく何かしなくちゃ」と動いていました。でも、若くもないし、力もなくて、自分にがっかりしていました。ある時から、自分にできるやり方を模索する中で、地道に続けるという関わり方を見つけました。

連載東北から
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