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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

祖母の日記

八木まどか

今年、群馬の実家で、3年前に他界した祖母が2011年に書いた日記を見つけました。

祖母は当時89歳で、一人で自宅に住んでいました。最後までしっかり者だった祖母らしく、日記には驚くほど細かく、日々の出来事が綴られていました。

真っ先に私が探したのは、3月11日のページでした。
「3月11日:朝、妹より電話。娘おすし買ってきて孫の就職祝い3人でする。地震あり。東北関東大震災。M9.0。すごいゆれ、1人で外へとび出す。応接間の人形おち、ケースわれる。仙台6.5。前橋+5。」
「3月14日:仙台の駅テレビにうつり、まだメチャメチャでびっくり。」
「3月15日:まどか朝出て日本海の方まわり帰る様にする。山形でバスの人ヒコーキ紹介してくれる。」
「3月16日:第5グループ 9:20-12:30停電」
「3月18日:孫は卒業式行けなかった。娘たちお墓参りしてくれる。よかった。午後6:20-9:20第5グループ停電」
「3月22日:第5グループ停電中止。福島第一原発事故。野菜等も被害。」
「4月1日:地震名 東日本大震災」
「4月5日:まどか仙台へ帰る。夜10時頃発の高速バスで。」
「4月7日:夜11時頃震度4の地震。仙台6のひどい地震。服を着てテレビみる。まどかちゃん心配」

各地の震度、計画停電が行われたこと、夜行バスで仙台に戻ったことなど、私にとって「細かいこと」は正直忘れていました。そして、祖母がこんなに私を心配していたことも。

群馬にいた間、私が仙台の話をあまりしなかったと、後に母も教えてくれました。私の記憶では、発災直後から連絡がつかない友人がずっと心配で、調べたインフラ復旧情報を、仙台の同級生たちへメールする程度しかできないという罪悪感でいっぱいでした。それを、家族に言ってもわかってくれないと思い込んでいたのでしょう。

恐らく、祖母の日記を見つけなければ、私はこの時期の細かい出来事を忘れたままだったはずです。なぜなら、自分を被災者だと一度も思えなかったし、被災経験を語ることは、「本当の被災者」に失礼だという感覚があったからです。自分より大変だった人の話を聞いて伝えること、あの時の後悔を繰り返さないことだけが、大事だと思っていました。

しかし、私はあの時確かに、祖母たちに無事を祈られていたという事実は、10年近く経って初めて見つけた、誰にも遠慮せず語れることでした。今年で私は30歳になり、また、世界的な災禍の中で生かされているのだから、「祈る側」として適切なふるまいを努めていました。一方、苦しさに折れそうになり、10年前から何も変われていないような絶望感もありました。そんな私に、亡き祖母が教えてくれたのは、ただ大事な人の無事を祈るだけで、もう十分だという事実でした。

私は今起こっている災禍においても、生きている限り当事者とは言えない気がします。しかし、今を生きる一人として、他者や出来事から受け取ったものを言葉にして未来に託すことは、私なりの祈りです。

自己紹介や手記の背景

震災当時、私は大学2年生で、14時46分は仙台市中心部の施設にいました。部活の仲間で家に集まり数日過ごした後、群馬の実家に帰省しました。大学卒業後は大阪や東京に引っ越したせいで、たまに初対面の人に震災の経験を尋ねられましたが、被災者ではない私の話などすべきでないし、人に関心を持たれないと思っていました。卒業後も震災に関わる活動を続けることも、正直後ろめたさがありました。私にその資格があるのかと。奇しくも今年の3月11日は、在宅勤務中のため数年ぶりに、東京の自宅で静かに手を合わせられました。そして、私はあの日を起点に色んな出来事や人間関係を考えざるを得なかったと気づき、手記を書いてみました。

祖母の日記

八木まどか

自己紹介や手記の背景

震災当時、私は大学2年生で、14時46分は仙台市中心部の施設にいました。部活の仲間で家に集まり数日過ごした後、群馬の実家に帰省しました。大学卒業後は大阪や東京に引っ越したせいで、たまに初対面の人に震災の経験を尋ねられましたが、被災者ではない私の話などすべきでないし、人に関心を持たれないと思っていました。卒業後も震災に関わる活動を続けることも、正直後ろめたさがありました。私にその資格があるのかと。奇しくも今年の3月11日は、在宅勤務中のため数年ぶりに、東京の自宅で静かに手を合わせられました。そして、私はあの日を起点に色んな出来事や人間関係を考えざるを得なかったと気づき、手記を書いてみました。

連載東北から
の便り