Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

あの日

海仙人

あの時私は駐車場の軽トラックの中にいた。部落総会前の打ち合わせの電話をしていた。
あれっと揺れを感じたと思ったらすぐに大きくなった。電柱が右に左に大きく揺れ、まるで漫画のようだった。工場に入ると同僚がガスボンベを必死に押さえている。
「津波」という文字が頭に浮かんだ。工場も海から100メートルも離れていない。揺れがまだ続いているなか「水門閉めに行っから」と同僚が言った。大船渡の消防団で、水門を閉める係になっていた。
「早く行かないとヤバいかもしれない」と呟きながら出て行った。
残った同僚と片付けをしていると、山あいから通勤している女性事務員が工場に入って来た。
「すごい地震だったね」
「今日はこれで仕事は解散だから」と言った。
「えっ???」
「これは間違いなく津波来るがら。早ぐ帰って」と言うのが精一杯だった。
工場を閉め会社から500メートルの自宅に車を走らせた。
「父ちゃんは?」
「H君が車で避難所まで乗せて行った、家の中散らかって大変だぁ」と母は呑気に言った。
「そんなごどいいがら早ぐ乗れ」
「位牌も持ってきてない」
「そんなのいい。とにかく早ぐ乗れ」そんな会話だった。地震から既に15分、今来てもおかしくなかった。
指定避難所には人が集まっていた。地区住民のみならず釜石や石巻の人など国道を車で走ってた人などが50人以上はいたような気がした。私たち海の側の住人は自然と寄り集まっていた。
「まぁ、他の班はともかく、俺たちの家は間違い無くやられるから」班の長老は覚悟を諭すように静かに語り、私たちはうなづいていた。
いつの間にか、防災放送が「津波が来て防潮堤を越えた」に変わっていた。
少し経ち避難所に津波に巻き込まれたおばあさんが運び込まれてきた。医者も看護婦もいない避難者のところに。
「水に浸かって低体温だ。身体を温めてやってくれ」消防団はそう告げると急いで立ち去った。その言葉と行動に一気に緊張感につつまれた。
暗闇の和室の中に小さなストーブが2つ焚かれ、毛布を幾重にもかけられたおばあさんの身体を代わる代わるさすっていた。
南の山には大きな夕焼けが時間を経て増すます色鮮やかになっていた。夕焼けは10キロ以上離れた先の気仙沼の火事だった。その夕焼けは朝方まで続いていた。
やっと空が白み始め、闇の不安から少しずつ解き離れてきた。
慣れ親しんだ顔ぶれが少し緊張感をほぐしてくれたが、南の山には延々と黒い煙が立ち上っていた。

自己紹介や手記の背景

チリ地震津波後建設された防潮堤の際の家に生まれ育ち、幼い頃から津波の話を家族や地域の人々と共有して生きてきました。着の身着のまま避難、リヤカーで家族総出の避難、学校での避難訓練、地域での避難訓練など何度も何度も積み重ねて47年。生まれて初めて本物の地震と津波を経験した日の12時間。
あの日から10年。震災後知り合った人々に80年で3回自宅を津波で流された話をすると「何故、そんな場所に住んでいたの」と問われ、三陸に住んできた先人たちの歴史や生活、生き様に強い関心を持ちながら生きるようになりました。

あの日

海仙人

自己紹介や手記の背景

チリ地震津波後建設された防潮堤の際の家に生まれ育ち、幼い頃から津波の話を家族や地域の人々と共有して生きてきました。着の身着のまま避難、リヤカーで家族総出の避難、学校での避難訓練、地域での避難訓練など何度も何度も積み重ねて47年。生まれて初めて本物の地震と津波を経験した日の12時間。
あの日から10年。震災後知り合った人々に80年で3回自宅を津波で流された話をすると「何故、そんな場所に住んでいたの」と問われ、三陸に住んできた先人たちの歴史や生活、生き様に強い関心を持ちながら生きるようになりました。

朗読

朗読:原西忠佑

選考委員のコメント

地震を感じてから、わずか15分の間の行動が描写されていた。これは、体験した人でないと書けない貴重な部分だと思う。津波に巻き込まれたおばあさんが運び込まれ、その身体を温めてやりながら夜が来て、そして明ける。暮れ方、夕焼けと思ったのは気仙沼の火事で、それが朝まで続き、やがて黒煙に変わっていった。
淡々とした文章だが、襲ってきた災害の下で、人々がどう動いたか、それが読むものにせまってくる。10年という時間を越えて、「あの日」への思いを、こうして綴ったそのことが、わたしの胸にせまる(小野和子)。

連載東北から
の便り