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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

9年前の《あの日》から

木村奈緒

2011年3月11日午後2時46分は、当時勤めていた都内の会社で迎えました。小さなメーカーで営業をしていた私は、その日、4月から関西支社へ転属になる先輩社員の担当会社に、引継ぎの挨拶に行く予定でした。

揺れが起きた時、思いの外強い揺れに「わ、地震だ!」と言いながら、私は机の下に潜りました。揺れが収まってしばらくすると、今の地震で電車が止まっていること、電話が繋がらないことなどが分かり、いつもの地震とは違うぞという感じを覚えました。先輩がかけた何度目かの電話がようやく繋がり、引継ぎの挨拶は取りやめになりました。

部長が、普段は電源が切られっぱなしの小さなアナログテレビをつけると、不鮮明な画面に、黒い濁流が田んぼを飲み込んでいく映像が映し出されていました。

結局みんな仕事どころではなくなり、コンビニに食べ物を買いに走ったり、馴染みの中華屋のご主人が持ってきてくれたおにぎりを食べたりして、突然訪れた緊急事態を若干の興奮状態でもって過ごしていました。気づくと、誰かがどこからか人生ゲームを見つけてきて、プレーをしながら電車の運行再開を待ち続けました。しかし夜になっても電車は動かず、隣県から通っていた私は帰る術がないので会社の会議室で椅子を並べて横になり、一夜を過ごすことにしました。一緒に泊まった先輩の中に妊婦さんがいて、こんな頼りない寝床で大丈夫だろうかと、心配しながら眠りにつきました。

それから今日までの間、私は震災とどのように関わってきたのでしょうか。振り返ってみると、震災の年の11月には、いわき市でボランティアをしていたアーティストが、地元の人たちと大がかかりなプロジェクトを行うと知り、初めて被災地を訪ねました。その日は小さなお祭りのようなものも開かれていて、町長さんが涙ながらに話すのを聞き、どんなに小さな町でも、長としてみんなを取りまとめるのは本当に大変なんだなということが、部外者ながら身に沁みて感じられました。

2014年には、相馬市に拠点を置くNPOが主催する「福島第一原発20km圏内ツアー」に参加しました。ツアーと言っても参加者は私一人。相馬市から浪江町まで案内役の方の話を聞きながら車窓にうつる景色を見つめました。その後も、東京や福島で開かれた震災に関する展覧会を観たり、震災を扱った映画を観たりしました。被災者の方の話を直接聞くでもなく、ボランティアをするでもなく、一人でぽつぽつと気になったものを見に出かけただけです。

震災の翌朝、隣駅に住む部長とようやく動き出した電車に乗り、朝陽が射し込む車内で眠気をこらえながら「来週からいつもの生活に戻るといいですね」と話しました。震災から数年後、私は会社を退職し、今は当時とは違う生活をしています。それでも、この9年間はあの日からずっと続いているのだと思えば、私は、確かに《震災があった日》以降を今日も生きています。

自己紹介や手記の背景

震災当時も現在も神奈川県に住んでいます。震災当時は会社員、今はフリーランスとして仕事をしています。ありありと思い出せる記憶というものがあまりないのですが、震災の日のことは、断片的ではあれど、近しい日のことのように記憶されています。これまで自分は積極的に震災に関わっていないと思っていましたし、実際、震災をまるきり自分と関係のないものとして忘れ去って生活することも可能なのですが、折に触れて展示を観たり、時には現地に行ってみたりしていることを思うと、自分の中の何かが震災に目を向けさせているのかもしれないと、今回手記を書いてみて気がつきました。それが何なのかを考えてみたいと思います。

9年前の《あの日》から

木村奈緒

自己紹介や手記の背景

震災当時も現在も神奈川県に住んでいます。震災当時は会社員、今はフリーランスとして仕事をしています。ありありと思い出せる記憶というものがあまりないのですが、震災の日のことは、断片的ではあれど、近しい日のことのように記憶されています。これまで自分は積極的に震災に関わっていないと思っていましたし、実際、震災をまるきり自分と関係のないものとして忘れ去って生活することも可能なのですが、折に触れて展示を観たり、時には現地に行ってみたりしていることを思うと、自分の中の何かが震災に目を向けさせているのかもしれないと、今回手記を書いてみて気がつきました。それが何なのかを考えてみたいと思います。

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