Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

僕が歩き始めるまで

水島久光

東京に住む僕は、津波の前の、その街の姿を知らない。

おそらく初めてその街のことを意識したのは、3月11日の夜、炎に包まれる様子を捉えた報道の俯瞰ショットだった。その赤と黒のコントラストからは、恐怖しか感じることができなかった。そして僕は、その画面を茫然と眺めていた。

それから1週間、僕はたくさんのことを間違えた。予定していた研究集会の中止を巡って口論になった。ネットのデマ情報を拡散させてもしまった。あらゆるものを判断する軸が狂っていると感じていた。いやそうではない。最初から軸など持っていなかったのだ。

メディアのこと、特にテレビのことを研究していた僕が、テレビと一緒になって狼狽えていた。でもそれしかできなかった。フットワークのいい友人たちが、現地に向かいはじめた。動けない人たちも、ネットを使ってそれぞれに「できること」を見つけ始めていた。

目を逸らしていたのではない。むしろずっと毎日テレビを見ていた。それが僕の仕事だという自負もあったが、正直に言えばそれしかできなかった。幸いなことに連載コラムなど、いくつか原稿依頼もあった。そしてその与えられた文字数を、自分のために使った。

これは3月末締切のコラムに書いた原稿である――それが、きっかけだった。

忘れられない映像がある。津波から13日が経った陸前高田からの中継(テレビ朝日「スーパーモーニング」)――避難所に行かず、高台の寺で過ごす人々を取材したものだ。赤江玉緒キャスターは境内のベンチで住民の隣に座り、見る影もなくなった町並みを共に見下ろし、ただ話に頷いていた。

たったそれだけの映像である。しかしそこには微かでも確かな「兆し」があった。住民に正対せず、並んで歩き、指さす方向に視線を合わす。それはそれまで見たこともない、被災地の姿だった。
 
カメラは、人の目の代理として機能する。ならば、今それは誰の「目」であるべきなのか。雄々しく立ち向かう人々の物語を描くことにも意味はあるだろう。でもそれは、自らを安全な場に置いて、遠巻きに眺める外部者の好奇の「目」に堕してはいないだろうか。 
(『見聞録』共同通信、2011年4月)

「カメラは、誰かの目の代わり」――だとしたら徹底的に、それは誰の目なのかを考えながらテレビを見よう。そう思って言い訳をしながら、動かずにいた。そのうちにようやく僕の金縛りが解けてきた。半年が経っていた。

毎年参加してきた市民メディアのイベントが、9月24日、せんだいメディアテークで開かれるとの報せが届く。僕はようやく重い腰をあげ、前日に新幹線に飛び乗った。向かったのは、最初に見た赤と黒の街、気仙沼である。

誰一人知り合いのいない瓦礫が残る道を、地図と足を運ぶ前に見た映像の記憶を手掛かりに歩いた。被災前の街をイメージしてただ歩いた。津波が押し流したものは何だったのか。以来ずっとそれを考えながら、毎年3月11日は、沿岸各地を歩き続けている。

自己紹介や手記の背景

震災からの10年という時間を考えると、すごく複雑です。あれからたくさんの方々に出会いました。そしていろいろなことを教えていただきました。でもその出発点を…と思い起こすと、僕は何も知りませんでした。でもそれが全て新しい経験だったかというと、そうでもなく、「どこかで聞いたことがある話だなあ」「ああ、あそこで感じた出来事に似ている」ということが少なくありません。「生活」とか「日常」ということがらの存在感を確信したという意味では、人生が大きく変わった10年でした。特に「コロナ」の毎日の中にいると、余計にそのことの重さについて考えます。

僕が歩き始めるまで

水島久光

自己紹介や手記の背景

震災からの10年という時間を考えると、すごく複雑です。あれからたくさんの方々に出会いました。そしていろいろなことを教えていただきました。でもその出発点を…と思い起こすと、僕は何も知りませんでした。でもそれが全て新しい経験だったかというと、そうでもなく、「どこかで聞いたことがある話だなあ」「ああ、あそこで感じた出来事に似ている」ということが少なくありません。「生活」とか「日常」ということがらの存在感を確信したという意味では、人生が大きく変わった10年でした。特に「コロナ」の毎日の中にいると、余計にそのことの重さについて考えます。

連載東北から
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