Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

プールにて

海仙人

30℃の温かい水が身体にヌルリとまとわりつく。
広く明るい館内は水中ウォーキングを楽しむ声でにぎわっている…。
そのプールに週に一度鈴の音のような澄んだ声が鳴り響く。
「5秒前、セーノ」「ハイ」
「ラスト行きまーす、セーノ」「ハイ」
高校の水泳部の練習日。
10年を経てすっかり中年になった自分と比べるとまるで水中動物のようだ…。
あの日、この高校の水泳部の生徒たちと若い顧問の先生が亡くなった。海の近くのプールに部活動で行ってた時だった。
震災を生き延びた人々には二種類の話を持っている。一つは自身の体験の話。もう一つは数えきれない程聞いた他者の話。
この部の話は避難所に居た頃、親しくなった女性から聞いた。当時はあまりにも悲しい話ゆえに広く知られていなかったように思う。
私は震災の翌日から親戚、友人、知人の消息を尋ね歩いた。山裾を横切る曲がりくねった細い農免道路を大勢の人が列をなし歩き、その姿はホラー映画のゾンビのようだった。
知人に出会う度に共通の知り合いの安否を尋ねあっていたが私のように家族全員無事というのは珍しく、たいがい家族や近親者に犠牲者がいるという状態だった。
私は亡くなった知人の数が30名を越えた頃から数えるのを止めた。あれ程までに安否の情報を求め歩き続けていたのに。一世帯で一人より複数の犠牲者がいることも多かった。その数があまりにも多いので「死」というものに対して感覚が麻痺していった。それでもこの水泳部の話を聞いた時、鈍った心に深く刺さり避難所で何日か塞ぎ込んだのを覚えている。
10年という月日を前にこの話は記憶から消えていたはずだった。現に何度かプールで一緒になっているのに気づかずにいた。
それがある日…。以来、練習時間が重なるたびに様々な疑問が心の中に湧きおこった。何より自分はともかく本人たちが辛くないのかと…。
でも…、それは杞憂かもしれないと思うようになった。
あの日あの時、確かに彼らはまだ幼かった。小学校に入ってまもない年頃。家族や親族、友達、ご近所などに犠牲者がいたかもしれない。仮設住宅がひしめき合うグラウンドの片隅で遊び、避難所、仮設住宅で不自由で不便な生活を生き抜いてきたのだ。
もちろん、この部の惨劇を知りながらも、強い決意と覚悟を持って入部しているに違いない。そのしなやかさ、強さ、逞しさに触れ、私自身が勇気づけられるようになっていた。

自己紹介や手記の背景

自分たちはいつになったら「震災」を語れるのだろう? と何かがあるたびに話にでていた。その中で「10年」という言葉が度々出ていた。一人一人が直面している現実を自身さえ理解できずにいるのに、誰が総括的に震災を語られようか。そんな毎日だった。それでもその10年に近づいてきたので、あらためて自分自身のこと、身の周りの人々に目を向けてみた。自分にとって「震災」とはあの日から始まり現在進行形のままでまとめることができない。しかしプールで高校生に出会った時、「10年」をそこに感じた。生徒、顧問の先生のそれぞれの10年に想いを馳せると彼らの人生に少し触れられた気がした。

プールにて

海仙人

自己紹介や手記の背景

自分たちはいつになったら「震災」を語れるのだろう? と何かがあるたびに話にでていた。その中で「10年」という言葉が度々出ていた。一人一人が直面している現実を自身さえ理解できずにいるのに、誰が総括的に震災を語られようか。そんな毎日だった。それでもその10年に近づいてきたので、あらためて自分自身のこと、身の周りの人々に目を向けてみた。自分にとって「震災」とはあの日から始まり現在進行形のままでまとめることができない。しかしプールで高校生に出会った時、「10年」をそこに感じた。生徒、顧問の先生のそれぞれの10年に想いを馳せると彼らの人生に少し触れられた気がした。

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