Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

私にとっての陸前高田

名古屋の住人

私は震災から何年か経過した後、東北を旅行し始めた。
以前から旅行は好きで何度か東北地方に訪れていたが、震災の前後は北海道に行っていた。しかし、せっかく、旅行するなら何か「復興の手助け」になればという思いで、行き先を東北に変えた。
その頃、私は「本当に行っていいのか」という不安や「何しに行くんだ」と誰かに聞かれたときの言い訳として「復興の手助け」という言葉を使っていた気がする。

行き先のひとつは、住んでいる市が「まるごと支援」している陸前高田市にした。当時、陸前高田は嵩上げ工事のためのベルトコンベアを造り始めた頃で、次の年には、川向うの高台を発破した土砂をそのベルトコンベアが運んでいた。そのうちベルトコンベアは撤去された。私はその頃通りすがりの観光客だった。

何度目かに訪れた時、震災遺構を見学するツアーに参加した。そのガイドの方との話しの中で、その年の夏に盆踊りを再開されることを知った。その際「是非来てください」という言葉は社交辞令だったのかもしれないが、せっかく誘ってもらったのだから、と盆踊りに出かけた。3年前のことだ。4回目のはずだった今年の盆踊りはなくなってしまったけれど。
その盆踊りは、関東圏在住の若者と陸前高田市在住の若者たちが中心になってすすめたもので、14年ぶりに再開され、大変盛況だった。

そこでたくさんの人と知り合ったことで、私の陸前高田との関わり方が大きく変わった。
桜の植樹事業を紹介してもらい、春と秋の植樹会に参加するようになった。夏には桜の周りの草刈りするボランティアに出かけた。また、人手が足りないりんご農家があることを聞き、りんごの収穫の手伝いに行くようにもなった。その他にも地元の大学と地元の人との勉強会にも参加させてもらったりもした。

私は、そのうち彼らたちとどのように関わればよいのか、迷うようになった。私は被災したわけではないし、所詮よそ者である。 移住した人達のように関わるわけにもいかず、この先ずっと付き合っていく覚悟を決めたたわけでものない。「時々、ふらっと訪ねて行って、さっと帰ってしまう」という態度は、彼らに失礼ではないのかと考えてしまう。一度、それとなく聞いたところ、彼らは「来てくれるだけでうれしい」と言ってくれたけれど、正直なところまだ迷っている。

それでも、これまでひとりで行っていた陸前高田に、誰かを誘ってみようと決めた。
昨年の夏の小学生のころの同級会で、初めて陸前高田に通っていることを話して、桜の植樹会に誘ってみた。会社の同僚に岩手で何をしているのかを話してみた。それから、いつも聞いているラジオに陸前高田での出来事を投稿してみた。私の中では、まだ何も変化はない。

ただ、泉谷しげるさんがさだまさしさんとボランティアに行った後で「さだ。また、偽善しに行こうぜ」と言ったのを聞いた。何か、肩の力が抜けた気がした。

自己紹介や手記の背景

阪神淡路大震災の時は、結婚したばかりで、自分のことで精一杯だったため、遠い被災者に思いを馳せる余裕はありませんでした。その後、少し余裕ができてきていましたが、何をしてよいのかわからず過ごしていました。
そんな時、東日本大震災が起こりました。何かした方が良いことはわかっていましたが、なかなか一歩を踏み出せませんでした。取りあえず行ってみようと重い腰を上げたのが震災から3、4年後のことでした。
陸前高田でのできごとは、製造業のサラリーマンである私にとっては、非日常的で、普段の労働とは全く違う価値観の活動でとても新鮮でした。

私にとっての陸前高田

名古屋の住人

自己紹介や手記の背景

阪神淡路大震災の時は、結婚したばかりで、自分のことで精一杯だったため、遠い被災者に思いを馳せる余裕はありませんでした。その後、少し余裕ができてきていましたが、何をしてよいのかわからず過ごしていました。
そんな時、東日本大震災が起こりました。何かした方が良いことはわかっていましたが、なかなか一歩を踏み出せませんでした。取りあえず行ってみようと重い腰を上げたのが震災から3、4年後のことでした。
陸前高田でのできごとは、製造業のサラリーマンである私にとっては、非日常的で、普段の労働とは全く違う価値観の活動でとても新鮮でした。

連載東北から
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