Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

2011年3月12日から、現在(いま)へ

はっぱとおつきさま

東日本大震災発生当時、私は福島県浪江町に住む高校2年生だった。
浪江町は福島第一原子力発電所の20キロ圏内にある、海と山に囲まれた平和でのどかな町だ。
東日本大震災というと津波と地震ばかりが取り上げられるが、原発事故のことは語られることは少ない。
未だに福島のこと、そして原発事故の問題は、「語りづらさ」がつきまとう。
忘れてしまっている人、知ろうとしない人、自分の思い込みにはまってしまっている人がいて、なかなかフラットに話すのが難しくなっているように私は感じる。
原発事故は、「アンダーコントロール下にある過去の出来事」ではない。
気が遠くなるほどの廃炉への道のりや土地と切り離されてしまった人々と文化への影響は、私たちの生活を維持し、発展していくための代償としてはあまりに大きい。
今、原発事故のことを知るということは、私たちのこれからの生活や生き方を考えることに繋がるのだと思う。

3月12日、あの日は地震でガタガタになった道を何時間もかけて自宅に戻り、津波と地震の被害を免れた我が家で余震の不安に怯えながら眠った翌日だった。
15:36、余震も徐々に落ちつき、町中の避難所に向かう車の渋滞も落ち着いてきたころ、自宅にいた私は、1階のリビングの窓を開けた。その時だった。
ドドーンッッ!!! 突然大きな地鳴と共に、大きく地面が揺れた。
その後、浮かび上がった地の砂利が一斉にバラバラと地面に打ち付けられる音が聞こえた。
また余震かと思ったが、その後揺れが来なかったため、私は自宅近くの橋が落ちてしまったのかと思い、1人家を飛び出して橋を見に行った。
橋まで来たとき、一台の車が走って来て私の前で止まった。町役場の人が窓を開けて、私に向かって叫んだ。
「原発が爆発した! 逃げなさい! 」
突然のことで、自宅から約7キロにある原発の存在と、その原発が爆発したことが頭の中でつながらず、頭が真っ白になってしまっていた。
避難した数日後にわかることだが、これが福島第一原子力発電所1号機の水素爆発だったのだ。
追いかけてきた母親も唖然とした様子で、その後慌てて自宅へ戻り、身の回りにあった最低限のものを車に詰め込んで、山間の避難所を目指して車を走らせていた。

その後、まさか数年間自宅へ帰れなくなるとは思わなかったし、放射線の汚染によって、土着していた人々は強制的にその土地から避難しなくてはいけなくなってしまった。
また避難をした土地で、白い目で見られたり、差別をされたり、昨今も続くコロナ差別のようなことが起こっていたのは言うまでもない。

地球の資源を搾り取り、沢山の命をいただいて生きている私たち人間は、地球に負担をかけ、その代償に自然災害や疫病、さらに自分たちではどうしようもできないものを抱え悩まされることとなっている。

私たちは未来のことを思い図ろうとするが、誰にも未来はわからない。
私たちは過去からしか学ぶことはできないのだから。

自己紹介や手記の背景

今回あの震災から10年目を迎えるにあたって、私が忘れられない、忘れさせたくない出来事を残しておきたくて、手記を記しました。3月11日は多くの人によって語られ、知ることが多いですが、3月12日といわれると「何かあったっけ?」とピンとこない人が多いのではないでしょうか? 福島に生まれて、地震と津波、そして原発事故を経験している者として、時が流れ、何もなかったことにされてしてしまっても、起きたことは消してはいけない、今と未来のために伝えないといけないと思っています。

2011年3月12日から、現在(いま)へ

はっぱとおつきさま

自己紹介や手記の背景

今回あの震災から10年目を迎えるにあたって、私が忘れられない、忘れさせたくない出来事を残しておきたくて、手記を記しました。3月11日は多くの人によって語られ、知ることが多いですが、3月12日といわれると「何かあったっけ?」とピンとこない人が多いのではないでしょうか? 福島に生まれて、地震と津波、そして原発事故を経験している者として、時が流れ、何もなかったことにされてしてしまっても、起きたことは消してはいけない、今と未来のために伝えないといけないと思っています。

朗読

朗読:原田つむぎ(東京デスロック/ヌトミック)

選考委員のコメント

「2011年3月12日から、現在(いま)へ」、この文章を書いた、ペンネーム「はっぱとおつきさま」は言う。
「東日本大震災というと津波と地震ばかりが取り上げられるが、原発事故のことは語られることは少ない」と。
更に、手記の背景を記した文章のなかで、こう言う。「3月11日は多くの人によって語られ、知ることが多いですが、3月12日と言われると、何かあったっけ、とピンとこない人が多いのではないでしょうか」と。
本当にそうだと思う。福島の人たちにとって、「3月12日」は、故郷を捨てて、長い長い旅にでることを余儀なくされた日であった。地震の翌日、余震も落ち着いたころ、もう一度人々を脅かす、不気味な爆発音が鳴りひびき、福島の運命は大きく変わった。
わたしたちは、それを忘れてはならないことを、「はっぱとおつきさま」は語っている。
地震と津波によって、家や田畑や、また船や港など、形あるものを失った人たちの悲しみは大きい。しかし、形あるものを、すべて、形あるままに見捨てて、旅立たなければならなかった福島の悲しみは、ときに見えにくい。
しかし、ここをこそしっかりと見なければならない。それは、避けられない天災だったのではなくて、まぎれもなく人間の手で起こした人災であったことを、いま一度思い起こしたい。
「はっぱとおつきさま」はしずかに、そして、強くそれを訴える。
大切な手記をいただいたと思う(小野和子)。

連載東北から
の便り