Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

自分の今いる場所で

大政愛

あの日。茨城県にある大学の大きなホールで、200人くらいの学生が集まって集中講義を受けていた。揺れ始めたとき「みなさん、すぐ止まりますので落ち着いてくださいね〜」と教授は言っていたけど、揺れは止まるどころか大きくなり、悲鳴が上がった。教授も生徒も、荷物も持たずに慌てて外の広場に出た。けれども、今荷物を取りに行かないと2度と取りに行けないんじゃないかと思い、友達とこっそり建物に入ると、また大きく揺れた。被災地と呼ばれるのは福島以北が多いが、茨城も結構揺れていて、私もその揺れを確かに感じた。

2、3日はそのまま茨城県内で過ごしたが、余震が続いたり、流通が止まって町から食料が減り続けていたり、「放射能の影響がでる」というメールが知人から何通も来たりしていた。そして、「今ここにいる意味はないんじゃないか」「自分たちは帰る場所があるから、本当に必要な人に食料や電気が行き渡った方がいい」と思い、同じ四国出身の友達と3人でなんとか帰省した。帰省先では、最初は「大変だったね」と言われたが、それ以外は本当に穏やかで。流れる空気は日常そのものだった。この「日常感」が本当に気持ち悪くて、春休みだったということもあり、美術を専攻していた私は卒業した高校の美術室を間借りして、そこでずっと絵を描いていた。

4月になって、茨城に戻ってきた。余震がくるたびに怯えることが続いたが、それ以外は震災前に近い日々を過ごしていた。当時、私は学生のチームで病院でのアートプロジェクトを行なっていた。ある日、院内で活動をしていると、患者さんから、「こんなところでこんなことをしているんじゃなくて、今すぐ被災地にボランティアに行きなさい!」と怒られた。もちろん、多くの人、そしてアーティストが被災地へと向かってボランティアや活動をしていることは知っていた。けれども、自分が行ったところでそのノウハウがあるわけでもなく、ツテがあるわけでもなく。迷惑をかけるイメージしかない私は、ボランティアに行く気持ちにどうしてもなれなかった。後ろめたさを感じつつも、自分が今いる場所で今できることをやろうと、かえって意思を強くした。

その後、被災地と呼ばれうる場所に初めて行ったのは2014年。現代美術家の北澤潤さんに声をかけてもらい、福島県の新地町で実施されていたアートプロジェクトの手伝いとして参加させていただいた。プロジェクトの終盤、地元の男性が私に対して「もうここに来ることもないんだろうなあ」とつぶやいた。確かにそうかもしれない。本当に、ただのつぶやきだったのだが、震災のときになにもできなかった自分、何もないと動けない自分、違う場所から通って何かに関わり続けることができなさそうな自分に改めて気付かされた。良くも悪くも、やっぱり自分は、自分がそのときいる場所で自分にできることをするしかないのではと思い、今、私は福島県に住んでいる。

自己紹介や手記の背景

愛媛県出身で、震災当時は茨城県に住んでいました。被災地と呼ばれる場所に対して「どうせ関わるなら、住むぐらいじゃないと」と思っていたところに縁があり、2016年から福島県耶麻郡猪苗代町にある「はじまりの美術館」で学芸員として働いています。福島は日本や世界から見れば「被災地」かもしれないですが、猪苗代自体は、福島の中では被災地とは呼ばれない場所だと思います。それでも、震災がなかったら自分は今この場所にいないような気がします。

自分の今いる場所で

大政愛

自己紹介や手記の背景

愛媛県出身で、震災当時は茨城県に住んでいました。被災地と呼ばれる場所に対して「どうせ関わるなら、住むぐらいじゃないと」と思っていたところに縁があり、2016年から福島県耶麻郡猪苗代町にある「はじまりの美術館」で学芸員として働いています。福島は日本や世界から見れば「被災地」かもしれないですが、猪苗代自体は、福島の中では被災地とは呼ばれない場所だと思います。それでも、震災がなかったら自分は今この場所にいないような気がします。

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