Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

看板

あむ

私のオートバイはかろうじて高速道路に乗れる排気量だ。国道6号ではしばらくの間、福島県浪江以南、富岡以北が、二輪通行止めだったため、南相馬ICから常磐道に乗った。片側一車線ではあるけれど、他に車がおらず快調に風を切っていく。青空もまぶしく、まだまだ新しい道だからアスファルトも平坦でロードノイズも少ない。左右は基本、緑の風景だ。時折、積み上げられた黒のフレコンバッグが唐突に目に入る。本線脇に設置された線量モニターは黒字にオレンジ色でやはり高い数値を示している。浪江、双葉、大熊と南下し、富岡ICで降りる。

夜ノ森駅付近を迂回して、一旦国道に出る。小さな橋を渡って富岡の町に入りなおす。街並みが見えてきた。道の両脇に小さなバイク屋、美容院、すし屋やスナックなどの飲食店が並んでいる。店の数はわが町よりずっと多い。夕方だが、店の灯りはまったくない。人もいない、犬もいない、猫もいない。仮設の食品検査所が道路わきにあったと思う。そこだけが稼働している雰囲気があった。

私の記憶も、今はもう確かではないが、オートバイを入手した2016年4月以降たぶん2回ここへ来ている。それも年を1年か2年またいで、同じ季節同じ時間帯、夏の夕方。記憶をたどり、断片をつなぎ合わせてこれを書いている。

街路灯はついていたと思うが、店や民家が真っ暗、音も自分のバイクだけ。これから晩御飯が始まる時間帯の、あるいはこれから花火や盆祭りが始まる夏の夕方とは全く異なる、しーんとした日暮れだった。風景の印象として、時が止まってから5年以上経っているからか、新しさがない。その街をスケッチして色をつけるとして、窓の中は真っ黒に塗りつぶす。さらに、そうだなあ、一面に炭の粉を薄―くまぶした感じ。ちょっとすすけた感じ。

街並みを抜けてわずかな時間で、すっかり夜になっていた。ICまで行く道を外れて少し行くとパトカーが止まっていて追い返される。その先は帰還困難区域なのだ。

私はなぜここに来たのか。常磐道の北端が富岡ICだったころ、東京方面に行くときちょくちょく使っていたから、どんな風に変わったのか見たかったから。怒られてしまうかもしれないが、そういう理由だ。数年前から避難指示の解除が段階的に始まり、いくばくかの方々が帰還されているということで、今、どう立ち上がり始めているのだろうか? また行ってもいいだろうか?

道の脇にあちこちに立てられた「この先帰還困難区域」の看板は、闇の中ヘッドライトで見えてくるたび、不安感と少しだけ恐怖感を煽る。こういう災害現場もあるんだなぁ。オレンジのランプが並んだ帰路の高速に乗った途端、緊張から解放された気がした。

自己紹介や手記の背景

私は震災当時転勤で宮城県に空き家を残し、神奈川県にいました。計画停電で、水をためたり、冷蔵庫の中を整理したりしていました。住まいが踏切に近かったせいもあるのか、計画どおり停電、にはなりませんでした。当初、親戚からも、原発に近い宮城の家はあきらめろ、自分も東京を撤収して西へ逃げるから、などの話が入ってきたりしました。宮城の家は幸い一部損壊で済みました。周辺はマンホールが上がったりしましたが、今ではちゃんと暮らしています。原発事故は我々に様々なテーマを投げかけています。処理水や補償、核のゴミ、危険負担と環境コストの問題、エネルギーミックス、エネルギー安保、まだまだ国民的な議論になっていませんね。

看板

あむ

自己紹介や手記の背景

私は震災当時転勤で宮城県に空き家を残し、神奈川県にいました。計画停電で、水をためたり、冷蔵庫の中を整理したりしていました。住まいが踏切に近かったせいもあるのか、計画どおり停電、にはなりませんでした。当初、親戚からも、原発に近い宮城の家はあきらめろ、自分も東京を撤収して西へ逃げるから、などの話が入ってきたりしました。宮城の家は幸い一部損壊で済みました。周辺はマンホールが上がったりしましたが、今ではちゃんと暮らしています。原発事故は我々に様々なテーマを投げかけています。処理水や補償、核のゴミ、危険負担と環境コストの問題、エネルギーミックス、エネルギー安保、まだまだ国民的な議論になっていませんね。

連載東北から
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