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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

10年目の気持ち

momo

あの日は、寒かった。
降り出した雪が街を白く染めていく様を見ながら、被災した人たちが寒さを凌げているのか、せめてどこか屋根のある場所にいてほしいと願っていました。

3月11日の金曜日、内陸から沿岸の実家に帰省の準備をしていた私は、お土産を探しに行ったデパートのエレベーター内で地震を感じました。急いで外に出ると、電信柱も高いビルも道路も、まるで海の上に浮かんでいるかのように揺れていました。(これは普通の地震じゃない。何が起きているんだろう。)情報を得るのに頼れるのはガラケーの小さな液晶のみです。沿岸に住む母の携帯に「大丈夫? 逃げてね!」と送ると、1度だけ返信がありました。その後、沿岸地域に大津波警報、という緊急速報の画面になると携帯電話はもう通じなくなりました。繰り返す大きな余震、つかない電気、通じない電話、悲惨な状況を伝え続けるラジオ報道。真っ暗な夜は不安で不安で、玄関で毛布にくるまって過ごしました。数日後には電気が復旧し、テレビやインターネットも見られる環境になりましたが、入り組んだ沿岸でも特に奥にある実家の地域の情報はほとんどありませんでした。

(実家の家族は無事だろうか。目の見えない祖母を連れて高台まで逃げられた? 親戚は? 友人は?)ラジオから流れる、身元が判明したご遺体の名前を聞きながら、知っている名前にショックを受けたり、家族の名前が呼ばれないことに他の方には申し訳ないけれどホッとしたり、その繰り返しでした。

震災から数日後、このまま家にいても何もならない。動ける人が動かなきゃ。そう思い、市内の支援団体や物資を分けてくれるところを調べて回りました。まずは着るものと食べるもの。体を温めるもの。限られたガソリンと時間と運べる物資を無駄にしないためにはどうしたらいいかをいつも考えていました。

炊き出しの団体に入れてもらって地元に行った日は、同級生や数名の知り合いにも会うことが出来ました。そこまで親しくなかった人とも、会うたびにハグ。生きてただけでいい。お互いにそんな気持ちだったように思います。時間の経過とともに連絡のつく友人も増えてきて、待ち合わせをして会うようになりました。そんな中で小学校の時からの親友にも再会。強く抱き合った後に、お互いの近況を報告しながら、「今は1日を生きるのにみんな必死。ゆっくり泣けるのは1年後かな。」なんて話したことを覚えています。実際には、1年たっても必死の日々は続いていて、ゆっくり泣く時間もなかったように思います。実家は全壊。母と祖母は未だに見つかっていません。お葬式は済ませましたが、今でも信じたくない気持ちになることがあります。朝起きたら全部夢だったいいのに。何度そう思ったか。

でも、話したいことがどんどん増えていった、そんな10年でもありました。名前も知らないたくさんの人にもらった優しさは、次の誰かにきっと繋ぎます。

自己紹介や手記の背景

内陸に住んでいたので、直接の被害はありませんでしたが、被災者と支援者の両方の立場を経験しました。実家と家族(母、祖母)は未だに行方不明です。10年目の今の気持ちを書いておくことで、いつか振り返った時に懐かしく思い出せるかもしれないと思って綴りました。

10年目の気持ち

momo

自己紹介や手記の背景

内陸に住んでいたので、直接の被害はありませんでしたが、被災者と支援者の両方の立場を経験しました。実家と家族(母、祖母)は未だに行方不明です。10年目の今の気持ちを書いておくことで、いつか振り返った時に懐かしく思い出せるかもしれないと思って綴りました。

連載東北から
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