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特集10年目のわたしたち

東日本大震災から10年目、
いま何を考えていますか?

津波の木
畠山直哉(写真家)

2013年のフォーラム「なんのためのアート」で、畠山さんは “アートにおける「私たち」とは、「私」と「あなた」ではなく、「私」と「誰か」が合わさった「私たち」である” と語り、言葉にしがたいあの出来事とアートについて考え続けるための問いをいくつも投げかけてくれました。畠山さんは、いま何を考えているのでしょうか?

2018年6月4日 陸前高田市矢作町島部
写真:畠山直哉

靴をつっかけたまま、玄関のドアを押し開ける。きょうはあいにくの雨だ。道に出て、傘を開きながら地面に目を落とすと、そこには空が映っていて、少しのあいだ見とれてしまう。濡れたアスファルトが、頭上にある電柱やマンションを黒い影として、区切られた天空を明るい白として、少し向こうの樹木の緑すら、にぶく反射させている。歩き出せば自分の脚は、なんだか宙をゆくようだ。

不思議なのは、このような雨の日の記憶が、晴れている日には綺麗さっぱり、どこかにいってしまっているということだ。空が青く、眩しい陽光が濃い影をつくるような、そんな日に出かける時のことを考えてみればいい。その明るい眺めに、雨が降っている時の情景が重なったことなど、ただの一度でもあっただろうか。確かに同じこの道路、この家並みこの街路樹を、あの雨の日、少し湿っぽいズボンを気にしながら、同じこの僕は眺めていたというのに。

忘れている訳ではない。思い出すことがなかっただけだ。思い出そうとしさえすれば、あれこれの光景はたちどころに、脳裏に浮かんでくるのだから。では、もし「思い出そうとする」ことが、一度も行われないとしたらどうだろう。それと「忘れている」こととは、どこが異なるというのだろう。

誰かに言われて「ああ、そういえば……」という風に、忘れていた状態から何かを思い出すようなこと(想起)がよくあるが、これはたぶん、意識と記憶の中間部に扉のようなものがあって、それが開いたり閉じたりしている、というようなことではないだろうか。扉が閉まっていれば記憶は現れず、扉が開けば記憶は現れる。扉が開いても何も現れなければ、それは忘却と呼ばれるだろうし、開いた扉が閉まらない状態になると、それはトラウマと呼ばれるだろう。モンダイは、その扉を開けたり閉めたりする責任者が、この自分ではないということだ。

「忘れるな」という呼びかけにどう返事をしたらよいのか。「忘れない」の約束をどう守ってゆけばよいのか。「……絶対に」とつぶやいてはみるものの、どこかにいつも自信のなさが残る。意識と記憶の間にある扉を、自分で自由に開閉する方法を、誰か教えてくれないものか。

奇跡の一本松

遠くからバスでやって来た小学生たちが、海の方を指さして「奇跡の一本松、はっけーん!」と、興奮した声を上げている。最近なされた緑地化工事によって、背景にある巨大コンクリ防潮堤のブルータルさが抑えられたせいか、松の傍の折れ曲がったユースホステルが痛々しいとはいえ、景色の全体は、以前よりも穏やかなものになったように感じられる。

あんな大津波によく耐えて残ったものだと、誰もが感心するが、実は2013年からこの松は、エジプトのミイラのような剥製である。腐った根は慎重に掘り出されて別の場所に保管され、地中にはコンクリートの土台。そこから延びるカーボンの心棒が、分割されプラスティネーションされた幹を貫き、上空に拡がる枝の芯はステンレス、表面はエフ・アール・ピー、松葉はすべてプラスチックで、幹への取り付け前には風洞実験までおこなわれたとのことだ。一番てっぺんには避雷針まで付いている(申し訳ないが個人的には、あの一回溶けて少ない数にまとまってしまったような松葉の部分が、どうしても直視できない。針葉樹の葉は、やはり針のようにチクチク尖ってフサフサしていて欲しい)。

もはや幹の一部組織を除いて、全てが人工素材に置き換えられてしまったため、市の広報すらこの松を「レプリカ(模造/複製)」と呼ぶことがある。正確にはこの松は、加工を施した現物であるのだから、これを「レプリカ」と呼ぶのは難しいかもしれないが、「もう現物とは呼べないのです」というニュアンスを市が伝えようとしているところには、誠実さを感じざるを得ない。確かに松はもう「現物」ではなくなってしまった。では、ここに立っているのは、何なのか?

ここに立っているのはもう植物の松ではないし、生まれたり死んだりする生命としての樹木でもない。人工的で、彫刻や建築にも似た何か。「現物そっくり」という意味では、写真にも似ている気がする。「奇跡の一本松」の写真が立体化し、原寸で立ち上がったら、こんな感じになるだろう。

別に「奇跡の一本松」を茶化している訳ではない。子供の頃から高田松原を遊び場としていた自分に、そんなことをする気は毛頭ない。何もなくなってしまった陸前高田の地面に、ポツンと立っていたこの松が、当時どれだけの人々に感動を与えていたのかは、すぐに思い出すことができるし、これからも多くの人に2011年の大津波災害について考えてもらうためには、「奇跡の一本松」は、あった方が良いに決まっている。レスキューの努力にも拘わらず、この松が2011年の秋に枯れてしまった時、市がそれを処分せずに残すことを決めたのは、英断だったと思う。ただ「奇跡の」という、ドラマチックな形容詞がいまでもセットになっていることの理由を考えると、何かモヤモヤしたものが胸に湧いてきて、このような意地悪にも似た言葉が出てきてしまう。

ここに立っているのは、もう一本の松の木ではなくて、「像」とか「言葉」とか呼んだ方が正しく思えてくるような、観念的な何かだ。ほかの7万本の仲間が根こそぎにされても、あの大津波によく耐えて残った「奇跡」という観念だろうか。もし立っているのが観念であれば、それが「現物」だろうと「レプリカ」だろうと、その差は些細なもののような気がしてくる。どちらだっていいではないか、あの出来事の巨大さに較べたら……

これが「メモリアル(memorial)」と呼ばれるものだろう。ここに立っているのは、僕たちの意識と記憶(memory)の間にある、あの扉を開けるための装置なのだ。

ただ、開いた扉から苦しみの記憶ばかりが溢れ出てくるようでは、辛すぎる。東北沿岸部各地で「震災の記憶を継承するため」と、遺構の保存に関する議論が活発におこなわれていたが、そのいずれもがかなり紛糾していたのは、このためだ。陸前高田市の場合には、この「一本松」の他に、気仙中学校、旧道の駅高田松原、陸前高田ユースホステル、下宿定住促進住宅1号棟と、四つの廃墟を震災遺構として残すことが、比較的スムーズに決まった。市民体育館や市民会館など、解体されてしまったほかの建物とは異なり、この四つの建物ではたまたま、死者が出なかったからだ。


2020719日 陸前高田ユースホステルと奇跡の一本松
(私家版写真集《陸前高田市東日本大震災遺構》より) 写真:畠山直哉

ジェレミー・ベンサムのミイラ

しかしながら、こと僕に関する限り、「奇跡の一本松」を眺めても、2011年の大津波災害が直ちに思い出されるわけではない(それは、陸前高田市のあらゆる場所で思い出されていることだから)。扉が開いて、僕の頭に浮かんでくるのは、おかしなことに、あの「最大多数の最大幸福」で知られる、英国の功利主義哲学者、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham1748-1832)の姿なのだ。

もう20年以上前のことになるが、ロンドン大学のどこかの校舎の入口で、キャビネットの中に鎮座したジェレミー・ベンサムを見たことがあった。いかにも19世紀前半の法哲学者らしい装いで、つばの広い帽子を被り、杖まで持っていたので、よくできた蝋人形だと感心していたら、友人が「服や手袋の中は正真正銘のボディよ。彼の遺言なの。首から上はつくりものだけど、以前は足元に現物が置いてあったって……」と教えてくれ、飛び上がるほど驚いたことがあった。

この奇怪な話を、陸前高田の「奇跡の一本松」に結びつけるのは、ひょっとしたら世の中で僕一人だけかもしれない。だが「レプリカ」などという言葉と共に、あの人工的な松の葉を見上げれば、その印象が、キャビネットに鎮座する哲学者のミイラに結びついていっても、それほど不自然なことではないはずだ。

ベンサムの場合、死期に臨んで「自分の死が生者の幸福に役立つためには?」と、真剣に考えた結果が「自分のボディを大学に残すこと」だったという。当時入手が容易ではなかった解剖実習用の献体として自らを差し出し、その後は服を着て校内のしかるべき場所に居座る。彼は、生身を展示してしまえば絵画や彫刻にする手間が省けていいだろうし、快い回想も得易いだろう、と述べていたらしい。大学の運営会議のある時には、頭部が会議室に運ばれ「ベンサム先生、ご出席」ということになっていたらしく、まったく信じがたいことばかりだが、落ち着いて眺めれば、ここにも人の生と死、世の幸福を願うこと、記憶の大切さ、表象と現前といったことを巡る、人間的な工夫と努力の跡が、確かに見て取れるのではなかろうか。そしてそれは、「奇跡の一本松」を保存したいと願う人々の気持ちと、あまり大きくは異ならないのではなかろうか?

さらに加えれば、「奇跡の一本松」からベンサムへの連想に拍車が掛かるのは、彼の唱えた「功利主義」という一語のせいでもある。これほど震災後のアーティストたちを考え込ませた言葉もなかったのだから。

アーティストは、霊感や才能や努力によって、新しい作品を世に生み出そうとする。芸術史上の偉大な作家たちを尊敬すればこそ、かれらが成し遂げた仕事のさらに先まで進もうとする。だからできれば独自の、少なくともほかの作家とはカブらないようなスタイルを築くことが大事になる。仕事に真剣になるあまり、周囲から浮いてしまうこともあるが、それはむしろアーティストの伝統なのだから、気にせず自分の道を進めなどと、先達は忠告してくれる……

多くの人が馴染んでいるだろう、このようなロマンチックな思考様式。その中からは「結局アートは、分かる人にしか分からないものだ」とか「アートは役に立たないものだ。役に立ったらそれはアートではなくて、デザインだ」とかいった、カッコイイことを言う人も出てくる。そんな人たちも、2011311日の地震、大津波、それに続く原発事故の様子と、膨大な数の被災者たちの姿を見た。中には自ら被災した人たちもいた。そして、ほかのすべての人々と同じように絶句し戦慄し、また咄嗟(とっさ)に「自分には、アートには、何ができるのか?」と考えたのだ。

「功利主義」は英語で「ユーティリタリアニズム(utilitarianism)」。「utility」つまり「有用性」を重んずる主義である。「役に立つ」ことが人類の幸福の総和を増やすという、誰にも反論ができない程のシャープな思想である。そしてこれこそが、震災後にアートに求められていた性質のうちで、一番大きなものではなかっただろうか。被災地のために、被災者のために、これからの世の中のために、アートに何ができるのか? いつにも増して「最大多数の最大幸福」が切実なテーマとなっている中、「分かる人にしか分からないアート」「役に立たないアート」を信じていた人たちの苦悩は、どれほど大きかったことだろう。いくつかの「役に立つ」かに見えるアートの実践例も、かれらにとっては何の模範にもならなかったはずだ。アートにおける近代主義の根の深さを、多くのアーティストが歯ぎしりしながら確認していたことと思う。僕も、その中の一人だった。

「奇跡の一本松」は、多くのアーティストのインスピレーションとなり、唄が生まれ、物語が綴られ、絵が描かれ、写真や映像が撮られた(陸前高田では「たまごせんべい」も生まれた)。はたしてそれらは「役に立って」いたのだろうか。それとも、アーティストの叫びにも似た、一方的な感情の表出だったのだろうか。ベンサムだったらこんな時、アートの有用性に関して、どのような意見を述べるだろうか。

一本のオニグルミの木

高田松原は気仙川の河口から、東に2キロメートルにわたって延びている。いや、延びていた。松原の砂は、川が少しずつ運んできた。何百年かかったのかは分からない。何千年かもしれない。それがすべて大津波によってえぐり取られ、7万本の松林はすっかり消えた。一つの風景がまるごと消えてしまうなんてことがあるわけないと、いまでも信じられないが、これは本当に起きたことのようだ。対岸にある気仙町の長部(おさべ)からはいつも、青い海の上に逞しい緑のラインが遠くまで続いているのが見えて、嬉しかったものだが、いまはそうではなく、コンクリートの白い壁が遠くまで続いているのだから。

あの津波が気仙川を、河口から8キロメートルもさかのぼったことに、驚かない者はいなかった。水は平らになろうとするから、水位が15メートル上がればそれに応じて、低いところを目指して動いてゆく。海から8キロメートル付近が、その水位に対応する地点だったということか。海などまるで関係ない、山の中と言ってもいいようなところなのに。

その山のあたりから、僕の母は出てきて、初夏になると海の匂いがして、カモメもたくさん飛んでくるような、川下の家に暮らしていた僕の父の、妻になった。行ったり来たりする道は、川に沿ってできているから、その道をさかのぼれば、母の子供の頃の思い出にたどり着くことができた。下ればもちろん、僕らの家族の思い出があった。

僕が現在撮っている写真の連作は、その道の途中にいまでも立っている一本のオニグルミの木との出会いから始まっている。オニグルミとは、都会のスーパーで売っているようなクルミとは違い、殻が固くてハンマーでなければ割ることができないような、東北では馴染みのクルミだ。

この木は、種子を撒くためによく川を用いる。だから果実は、流れの淀みに集まって浮いていることが多く、タモを使って採取したりもする。周囲の果肉状の部分が腐ってしまうまで放置し、洗って乾かしてから殻を割りにかかるが、苦労して割っても、中身がするりと出てくることはなく、尖ったものでほじくって、粉々にして出すことが多い。これをすり鉢で、水を少しずつ加えながら滑らかにし、砂糖と醤油を加えて、正月の餅に搦め、ニコニコと家族みんなでいただく……。扉が開くと、このような記憶が後から後から現れてきて、きりがない。

この木は、震災から数年は目立たなかった。いや、こちらが気付かなかった。周囲に少しの木がまだ残っていたせいかもしれない。やがてそれらは枯れて倒れ、この木だけが残った。オニグルミは葉を開く時期が他の広葉樹よりも遅いせいか、はっきり気が付いたのは3年ほど前の、真夏のことだった。

幹を中心にして、海側の半分は梢の先まですっかり枯れているが、山側の半分は青々とした葉を茂らせている。驚いてそばに寄り、幹を確かめると、海側の樹皮には大きな傷跡があった。そう、大津波が川を遡上した時に運んできたさまざまな物体、中には物体以外のものもあっただろうが、それが激しくぶつかってできた傷の跡だった。


201556日 陸前高田市矢作町島部 写真:畠山直哉

ここから先のことを語り始めると、話が長くなりすぎるから止めておく。ただ、あのオニグルミの木が、僕の意識と記憶の間にある扉を開けてくれた時、一つの言葉が不意に現れたことだけは、言っておきたい。それは「ラ・ヴィ・コンティニュ(La vie continue)=生きていることは続く」というものだ。フランス語だが、別にカッコつけてる訳ではない(生命と人生をいちどきに表す「ラ・ヴィ=生きていること」に相応しい日常単語が、日本語の中に見つけられないということもある)。

20151113日。一日のうちに、パリの競技場や劇場、レストランなど複数の箇所で、いわゆる同時多発テロが起こり、たくさんの死者(130名以上)と負傷者(352名)が出た。その惨状については日本でも連日報道されていたが、事件から数日経って、テレビでは日本のリポーターが、不穏な空気の残るパリの街頭で通行人にインタビューを試みていた。一人の若い女性が立ち止まると、マイクに向かって、事件の理不尽さに対する怒りと哀しみ、そして不安を語りながらも、平静と日常を保つことの重要性を強調し、最後に「La vie continue(生きてることは続くし)」と言い放ち、去って行ったのだ。

それは少しぶっきらぼうで、決して慰めの言葉などではなかった。でもその言葉に僕は、深く慰められた気がした。震災後に、世間から久しく聞こえてこなくて淋しいと思っていた言葉は、これではなかったのかと、僕は思った。

連載東北から
の便り