Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

東日本大震災から10年目、
いま何を考えていますか?

カタストロフを書き続ける
関口涼子(著述家/翻訳家)

『カタストロフ前夜─パリで 3 .11を経験すること』は、破局的な出来事であるカタストロフとの距離について書かれた著作です。離れた場所からでも出来事にかかわる態度と、当事者ではない(と思われている)からこそ見える視点をわたしたちに与えてくれました。関口さんは、いま何を考えているのでしょうか?

2021年2月1日 ユーカリの葉。コロナ禍以降、花や葉を観察する時間が増えた

昨年3月、『カタストロフ前夜─パリで 3 .11を経験すること』を刊行した時、わたしは、震災以前と以後では自分は全く別の作家になったと書いた。遠くからではあるがカタストロフを生きたことで、はかないものや数えられないもの、記録に残されない声などを拾い、文字として残していくのが自分の使命だと、大仰な言葉を使うのを許してもらえるならば、そう思うようになったのだ。日本から離れているからこそ、そのようなはかないものの持つかけがえのなさに気がつくことができたのかもしれない。

震災以降の10年間

震災について書いた作家は少なくない。わたしたちは覚えている。震災直後、一部の作家たちが熱に浮かされたように震災をめぐって作品を発表し始めたことを。新型コロナの感染が世界的に広まり始めた2020年3月、フランスは厳しい外出制限(外出許可の書類を携帯した上での1時間以内、1キロメートル範囲内の外出以外は禁止、家族に会うためであっても長距離の移動は許されない)に踏み切り、今までにない事態を経験した作家たちの中には、軟禁日記やパンデミアについて書く者が続出し、感染症関連の本が各国の書店に並んだ。その時にわたしは震災の時のことを思い出した。

自分たちの理解の範疇を超える事態が起きた時、わたしたちは理解しようとして、言葉にすがる。読むこと、書くことを考える支えにしようとする。その心の動き自体はごく自然なものだ。しかし同時にそこに書くべきテーマ、日常を超えるドラマを求める吸血鬼的な部分がないとはいえず(作家とはそういうものだ)、震災の際にそれを今書くべきか書くべきではないのかという倫理的な問題になったりもした。今回フランスでもパンデミアをいかに書くかについての議論が起きた。

わたし自身も、3 .11の次の日から、起こったことをまとめるため、書き続けた。遠くにいるわたしが震災について書く意義、そして書く権利があるのか、と常に問いながら。緊急事態の思考であるそれは『これは偶然ではない』としてフランス語で2011年に出版されたわけだが、その後、世界が震災からほかの時事に目を移した後も、わたしはカタストロフについて書くことをやめなかった。
震災以降の10年間、わたしはそれまでとは別の人間になったように書き続けた。詩を創作することはその後一度もなくなったが、その代わり散文の創作に移り、休まず作品を発表し続けた。福島のあんぽ柿について、もうこしらえられなくなった料理について、録音されることのないまま消えた声について、死者を呼び戻す(または呼び戻せないと知る)方法について、ともに生きることと別れることの間、生と死の間をきっぱりと区切ることができるわけではなく、その間にはいつでも名残が存在することについて。翻訳も、ある文化を背負った者が死んだ時にその語りを残そうとする者たちの試み、折り重なったタブーを口に出す勇気、ある文明から葬り去られようとしている民族の抵抗、影の重要性、言語の忘却などの問題を扱った作品を好んで訳してきた。

わたしにとって、震災について考え続けるということは、震災がもたらしたテーマをめぐって書き続けることに他ならず、震災以降10年間に書いてきた、一見それぞれ関連のないように見える作品群は、その一つひとつが、震災により届けられた問いに対する返答であったのだと思う。ほかのイメージを借りるなら、今まで漠然とではあるが自分の関心の対象であった事柄が、急に一点に集約された、または、今まで見えなかったものが次々と目に見えるようになり、わたしに書けと要求するようになった、とでもいうべきか。

震災後、食べ物を中心テーマとして執筆を続けてきたのは、もちろんそれまでの自分の関心とも重なるからだが、具体的にも食物が震災に端を発する主題であったからだ。それは個人的記憶、はかないものを象徴するとともに、わたしたちと世界の関係をも本質的に表している。エマヌエーレ・コッチャが『植物の生の哲学─混合の形而上学』で記しているように、人間は呼吸によって外界と体の内部を絶えず交換することで生きているのであり、外界に起きた変化は、「健康被害」のような限定的な用語を超え、わたしたちの体を、生を直ちに変容させる要素になるからだ。

「これは偶然ではない」

料理の持つ政治的、社会的な側面を中心に展開したのが、今年フランス語で出版される『ベイルート961時間(及びそれに伴う321皿)』だ。ベイルート国際作家協会の依頼により2018年レバノンで1ヶ月過ごし創作した作品だが、その後2年間にわたり、ベイルートという街を観察したことで、図らずもドラマに2回立ち会うことになってしまった。市民による反政府革命運動、そしてベイルートの港湾での大爆発とそれに伴っての歴史的地区大規模破壊という、3 .11にも比較されうるトラウマをベイルート市民に与えた悲劇だ。
この作品の中では、異なる歴史をたどってきたレバノンと日本という二つの国が、様々な歴史的要素と政治の問題により、同様にカタストロフを呼び込んでしまったことについて書いている。「これは偶然ではない(『カタストロフ前夜』所収)」の姉妹編に当たる本書は、そもそもが、ベイルート作家協会のメンバーが『これは偶然ではない』を日本とフランスの文化比較として読み、日本人作家として二つのオリエントと西欧という三つの柱を比較する本を書いて欲しいと依頼してきたことから始まった。その時には、自分たちがカタストロフ前夜にいたとは誰も思ってはいなかったのだが、その翌年革命が起き、ついで爆発事故と、二つのカタストロフをくぐり抜け、別の意味で「これは偶然ではない」ことを書き記す本となってしまった。

カタストロフが相次いで起こった時には、その偶然に呆然としたのだが、同時に、「これは偶然ではない」を読んで自分を招聘したレバノン作家たちは、そのようなカタストロフが起きるとは具体的にはわからなかったにせよ、自分たちの社会に起こりつつある危機を感じていたのかもしれないとも言える。それに今や、世界のどこに行っても、2年かけて定点観測した時に、なんらかのカタストロフが起きていない町や国の方が珍しい。もしカタストロフが書かれないとすれば、それはある街を見る時にそのような視点を持っていないというだけのことだ。

1年前からのパンデミアにより、皮肉な話ではあるが、初めて、世界中で同じカタストロフを経験しているという意識が共有されたのではないだろうか。同時に、そこで起こっている悲劇の内容は国や地域によって異なる。コロナについての各国のニュースが流れるたびに、わたしたちは、同じカタストロフがそれぞれの場所でどのようなインパクトを与えたのかを比較し、パンデミアに関する本を読むことで、偏在するカタストロフの意識を持てるようになった。

五感と言葉による抵抗運動

わたし自身この間、今回のコロナ禍について何か書かないのですかという問いを幾度も受けた。
今年フランス語で出版した作品『Sentir(〔何かを〕感じる、理解する)』は、一見最も震災とかけ離れていると思われるかもしれない。というのも、昨年引退したシャンパーニュのワインセラーの仕事を聞き書きすることから成り立っているからだ。
ワインセラーは、畑別、収穫日別に発酵させたワインを合わせて第二次発酵させ、自分たちの目指すシャンパーニュを作る。その際、テイスティングで重要となるのは味だけではなくなによりも香りだ。言葉にすることの難しい香りのデータバンクを脳に所蔵し、そこから適宜自分が今まで嗅いだことのある香りと今テイスティングしているワインを頭の中で突き合わせ、さらにそれをスタッフ一同と共有するために言葉にする。そこには、ただ五感を研ぎ澄ますことにより達することのできる世界がある。

放射能が、わたしたち動物が外界に存在する化合物を認識する「化学感覚」(味覚や嗅覚)を超えたところで存在するがゆえに、わたしたちの生を亡霊的にしてしまうとするならば、コロナの症状である味覚・嗅覚障害は、外界との関係に障害をもたらし、外界との間にいわば壁を作ってしまうという意味では、わたしたちを生きながらに自らの囚人にしてしまう。いや、味や匂いがわからないという意味では、自らを自分自身からも阻害してしまうと言えるのかもしれない。
そんな中で、わたしたちはどうやって、世界からわたしたちを遠ざけようとするそういったことがらに抗し、世界を感じることができるのだろうか。匂いを嗅ぐ、物を食べ、味を舌に感じることは、わたしたちの生の質がかかった抵抗運動だ。そして、五感を通じて外界を感じる、極めて主観的な行為と思われているそのような行為を複数の人間の間で共有可能にするのは、ただ言葉だけなのだ。
そういった意味では、この本はシャンパーニュや美食という比較的とっつきやすいテーマの裏に、五感を通じて人間性を獲得するための方法を考えようとしたのだと思う。

遠くにあるカタストロフについて書くということ

震災がなくても、いずれわたしははかないもの、歴史の記憶、人が人生の後に残すものについて書き始めていたかもしれない。生きていれば、個人的にか、集団的にかにかかわらず、何らかの形でカタストロフに出会うことがあるからだ。でも、東日本大震災がわたしたちに手渡したものはあまりにも大きく、考えるべきテーマはあまりにも多い。そのひとつについて書くとそこから新たな問いが生まれ、それについて考えていくとまた次が現れ……というように、途切れることのない問いの小道を辿り続け今に至っているのだと思う。

震災が今のわたしという作家を作った、と、わたしはいたるところで言い続けてきた。作家の中には、東日本大震災というテーマをずっと追い続ける人もいるだろう。わたし自身は、『これは偶然ではない』以外はそれとわかる形では被災地を作品の舞台として扱ってはいない。もちろんそれは一部偶然の結果ではあるのだが、同時に、あえてそうすることにより、フランスの読者に対しては、わたしたちが3 .11で背負った問題の数々が、単に日本、そして東北に特有のものではなく、いたる場所、あらゆる時代に偏在する問題ということを示したかった。また、日本人に対しては、たとえばベイルート港爆破事故が、カルロス・ゴーンと日本赤軍くらいにしか結びつけられていない遠くの国レバノンで起きた、自分たちに関係ない事柄ではなく、わたしたち日本人が生きた「カタストロフ前夜」と通じる部分があるということを語りたかった。

そこには当然リスクが含まれている。ベイルートの話を書く自分は当然レバノンの専門家ではなく、素手で未知の素材を掴みに行くようなところがある。間違いや思い違いもあるだろう。日本人の自分がフランス語で日本のことを書くときにも、わたしが書くことがすべて正しいとは限らないのに、フランス人には日本人が書いたことだからと鵜呑みにされる危険があるといつも感じてきた。遍在するカタストロフやカタストロフ前夜を指摘しようとすると、当事者でない問題についても書かざるをえない。
わたしは、唯一自分自身が経験した問題を扱った「声は現れる」を除けば、常に遠くにあるカタストロフについて書いてきた。それが含むリスクを考慮した上でなお、各地に存在するカタストロフに共通する問題を共有する意義が勝ると感じたからこそ、あえて続けてきたのだと言えるだろう。最初に日本人として否応なしに巻き込まれてしまった東日本大震災が出発点になっていなければ、そのような認識には至らなかったかもしれない。

日本で震災を考えるとき、多くは東日本大震災自体の問題だけに終始してしまう。もちろん、そこにある固有の問題を決して忘れてはいけないが、そこに含まれた、多くのカタストロフに共通する問題を拾い上げていかないと、どのカタストロフも局地的な問題として忘れ去られてしまい、ともに声を上げることができなくなってしまう。
わたしたちはいつでも多くのことを忘れてしまう。書きつけていないと忘れてしまい、そして、考えるためには常に思い出し、あらゆるカタストロフを喚起し、比較し、思考し、ともにたたかう必要があるのだ。同じ過ちを繰り返さないためには。

連載東北から
の便り