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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

ナンノタメニ

ならろくすけ

その瞬間は、会社の研修で東京にいた。後ろに倒れそうなほどふんぞり返ったエライさんの中身のない長口上。腹の満ち足りた後に襲うのは、ただ1つだ。意識が遠のく中で大きな揺れを感じる。ガラス張りの建物が大きくたわむ。

1年目のひよっこたちは、直後から被災地に送り込まれた。私が最初に向かったのは、女川町だった。早朝、仙台を出発したタクシーの中ですぐに眠りに落ちた。よだれを垂らしながら目を開いたときの光景は一生忘れないだろう。

避難所に着いてはみたが、激しく被災した人たちに到底話しかけることはできなかった。ボランティアのふりをして救援物資の搬入を手伝った。喫煙所でたばこを吸っていると、じっとこちらを見ている男性がいる。「1本どうですか」「おー、兄ちゃんありがとう」。何のことはない、私は長期出張を見込み、東京でたばこを2ダース買い込んでいたのだ。

翌日、高台にある遺体安置所に行った。自転車を押して坂を上がってくる男性が見えた。思い切って声を掛けた。「親父がこっちに住んでいるんですが見つからなくて」と疲れた表情。今考えると、男性は数十キロを自転車で移動して来たのだった。一通り話を聞いた後、私は「お父さんのこと、何か分かるといいですね」と言った。「ありがとうございます」。男性はほとんど表情を変えなかった。無責任な言葉と思っただろう。いや、そんな感情さえ浮かばないほどの疲労だったか。男性は再び、自転車を押して長い坂を下りていった。

名取市では、閖上で妻と幼い息子を津波で失った男性に出会った。男性はその後も、仕事を続けていた。「誇れる夫、父でありたい」と語った。家族写真を見せてもらった。きれいな奥さんだった、愛らしい息子さんだった。私はただただ泣いた。「すいません、僕が泣いてもどうにもならないのに」と謝った。男性は「いえいえ、いいんですよ」と、うっすらと涙を浮かべた瞳をしっかり見開き、私に声をかけた。部屋の奥で、やかんがピーッと鳴った。

あれから10年たち、私は仙台に赴任してきた。出張ではなく、生活者として。その空気を吸う者として。かつて訪れた被災地は、復旧工事やかさ上げを経て、様変わりした。「もう、自分が生まれ育った町ではないですね」と苦笑いする人もいる。それでも、新しい土地での生活は確実に始まっている。いや、始まらざるを得ないでいる。

震災後に東北の「外」から、被災地にやってきた多くの若い人たちに出会った。その思いはさまざまだ。「被災地に寄り添う」などというよく聞く言葉だけでは到底表せない。

では私は、何のためにここに来たのだろうか。ここに、いるのだろうか。「ナンノタメニ」。そんなもの、あるのだろうか。

自己紹介や手記の背景

記者として働き始めて、11年目になります。1年生の時、取材の応援で東北の被災地に来ました。そして昨年、仙台に赴任してきました。あのときの記憶は、ほとんど人に話したことはありませんでした。だけど、人から話を聞く人間として、それがとても罪深いことのような気がしています。これからの自分を考えるよすがとして、この手記を書きました。

ナンノタメニ

ならろくすけ

自己紹介や手記の背景

記者として働き始めて、11年目になります。1年生の時、取材の応援で東北の被災地に来ました。そして昨年、仙台に赴任してきました。あのときの記憶は、ほとんど人に話したことはありませんでした。だけど、人から話を聞く人間として、それがとても罪深いことのような気がしています。これからの自分を考えるよすがとして、この手記を書きました。

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