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特集10年目のわたしたち

表現には現れてくるタイミングがある『福島大風呂敷』と《Like a Rolling Riceball》

「君も一緒に大風呂敷を広げてみないか?」。2011年7月、茨城県水戸市在住の美術家の中﨑透さんは初対面だった福島市在住の建築家のアサノコウタさんに「深夜のテンション」で、そう呼びかけた。果たして正確な言葉がそうであったかは、いまとなっては誰もわからないが、中﨑さんの口ぶりは目に浮かぶ。
個人の仕事だけでなく、アートユニット「Nadegata Instant Party」の一員として、さまざまな人を巻き込み、誰もが思いがけない状況をつくる。「遊戯室」というスペースなどを運営して、人が集える場をつくる。中﨑さんは、いつも何かを「つくる」ことに人を誘い込む。どことなく隙のある口ぶりで呼びかける。
このやりとりから1か月後の2011年8月15日、ふたりは本当に音楽フェスティバル「フェスティバルFUKUSHIMA!」の会場一面に大風呂敷を広げることになる。
フェスティバルFUKUSHIMA!は、2011年5月に詩人の和合亮一さん、ミュージシャンの遠藤ミチロウさん、音楽家の大友良英さんらによって開催が宣言された。震災後にネガティブなイメージをもってしまった「FUKUSHIMA」を、文化の力でポジティブな言葉に変えていくことを目指した。
東京電力福島第一原子力発電所事故は、その近くで暮らす人々に多大な被害を与えた。正確には、いまも被害を与え続けている。拡散した放射能は人々が生活を営む土地を汚染し、多くの人たちの住まいも奪った。その事実は「FUKUSHIMA」という言葉とともに人類の負の歴史として名を刻まれることになった。
「福島に人を集めるとは、どういうことか」。フェスティバルの開催には原発事故の放射能への懸念から多数の批判もあった。会場は福島駅から車で30分ほどにある広大な公園「四季の里」。メイン会場の前には一面芝生が広がっている。会場の線量は事前に専門家を交えた入念な調査が行われていたが、放射線衛生学の科学者・木村真三さんのアドバイスにより、放射性物質への接触を低減させ、その拡散を防ぐ態度表明として、芝生に座るために布を敷くアイデアが生まれていた。
震災以前から親交があった大友さんから中﨑さんに声がけがあったとき、中﨑さんはアイデアを『福島大風呂敷』へと飛躍させた。そして、冒頭のやりとりへつながっていく。

福島で大風呂敷を広げませんか?


2011年8月14日 福島県福島市 「工場」での作業風景

2011年8月14日、フェスティバルFUKUSHIMA!の本番前日に「工場」となった福島市の大友さんの実家を訪れた。『福島大風呂敷』は風呂敷や布を募集することからはじまった。全国各地から集まった布はボランティアの人々が大風呂敷に縫い合わせていった。ミシンで布を縫い合わせる。一定の大きさになったら、近くの駐車場で広げ、畳むという作業が繰り返されていた。
まだ震災から半年も経っていない頃だった。ましてや津波と違い、福島の状況は変化を続けていた。非常時としての熱が冷めやらぬなか、次々と届く布や会場の広さにあわせて、大風呂敷を敷くための図面は何度も書き換えられていた。淡々と作業は続く。夏の暑さとあいまって、工場内は異様な熱気が溢れていた。
翌日、トラックで会場に運びこまれた大風呂敷は、みんなで手分けして大きく広げられた。麦わら帽子をかぶった中﨑さんとアサノさんが先頭に立って、指示を出す。参加者は、会場に敷かれた大風呂敷の上でくつろぎはじめる。フェスティバルはステージでの演奏だけではなかった。楽器をもったミュージシャンや一般の参加者は思いおもいの場所で音楽を奏でている。時折、土砂降りの雨が降り、晴れ間がのぞく不思議な天気だった。
この日、芝生の上に敷かれた、色とりどりの『福島大風呂敷』は、それから毎年続く、フェスティバルFUKUSHIMA!の象徴的なイメージとなった。


2011年8月15日 福島県福島市 フェスティバルFUKUSHIMA!当日の風景

縫い合わされた布には、布の送り手のメッセージが記されているものもあった。全国各地から集まった布は、震災後の福島へ想いを馳せる人たちの気持ちが込められていた。そして、それを縫い合わせた人たちも、またその行為を通して福島へかかわろうとしていた。布を集め、縫う作業をつくることで、震災後に生まれたさまざまな人々の感情を掬い上げ、『福島大風呂敷』という他者に共有可能な「かたち」にしていく。中﨑さんの人を巻き込んでいくやり方は、震災以前の作法と地続きのものにみえた。そして、それは震災直後における、ひとつの表現のありようだったともいえるだろう。
中﨑さんはのちにこの経験を振り返って、次のように語っている。

震災の直後、たくさんの音楽家が身体ひとつ、楽器ひとつで何かしらのアクションを起こすなか、美術の分野の持つスピードの遅さみたいなものにヤキモキした気持ちを多くの美術家が抱いたんじゃないだろうか。僕もその一人だったわけだが、大風呂敷の広がる光景を見たとき、もしくはさらに時間が経ち会場の写真をいろんな機会に目にするたびに、遅いメディアだからこその残り方や必要性みたいなことにあらためて気づき、役割分担というか、まあまあ、焦らずじっくりやっていこうかみたいな気分になった。(*1)

美術はスピードが遅い。確かに震災直後に音楽や身体表現の技法が生きる場面は多かったように思う。だが、時が経つほどに震災の経験を遠くへ伝える力をもつ「作品」の意義も高まっていた。まちから瓦礫(がれき)がなくなり、土地の造成が進み、生活が再建していくなかで人々の気持ちも落ち着きを取り戻していった。比例するように社会的な記憶の風化が進み、震災が話題となることも少なくなっていく。そうして見えにくくなった震災の記憶を残し、伝えることに目が向くようになる。時間が経つことで語れることも生まれてくる。そのとき「遅いメディア」が生きるタイミングが訪れていたように思う。むしろ、それを実感したのが、フェスティバルFUKUSHIMA!から数年後に、再び福島で中﨑さんの表現と出会ったときだった。

震災「後」の表現

2018年5月。清山飯坂温泉芸術祭を訪れた。プロジェクトFUKUSHIMA!が初めて開催した「小さな芸術祭」だ。会場は休業中の旅館清山。福島駅から電車で20分ほどの花水坂駅から歩いて数分の距離にある。会期終了間際に慌てて、芸術祭を訪れた理由のひとつは中﨑さんの作品にあった。どうやら傑作が生まれたらしい。すでにSNSで話題になっていた。
5月にしては異様な暑さのなかを歩きながら、2011年7月に休業前の旅館清山を訪れたことを思い出した。宿泊はしていない。ひょんなことからプロジェクトFUKUSHIMA!のイベント打ち上げの席に参加することになり、その会場が清山だった。このとき、清山がプロジェクトFUKUSHIMA!の拠点なのだと知った。いや、「根城(ねじろ)」といったほうが当時の印象に合う。アーティストもスタッフも関係なく、むしろ、わたしのようにプロジェクトに直接的に関係のない人も含め、さまざまな人が入り乱れるように、その場に集っていた。芸術祭には清山での出来事を描いた作品もあったが、震災以降この場所に積み重ねられた関係性は、芸術祭の空間を満たす親密さに現れているように思えた。
地下にはバーがあり、フロアも複数ある。増築を繰り返したかのように、いくつもの部屋が続いていく。その清山の不思議な空間を奥まで進んだところに、中﨑さんの作品《Like a Rolling Riceball》はあった。
《Like a Rolling Riceball》は、清山の女将さんにきいた人生の語りをもとに、清山の一角を巡るものだった。作品のはじまりにはマップが置いてあり、14に分けられたチャプターを追う。貼り紙になった語りの断片をたよりに館内外を歩きまわる。ほとんどの作品が一室で展示をしているなかで、中﨑さんの作品は芸術祭に入り込んだ個展ほどの面積を占めていた。それだけ「清山」という場所に密接した作品だった。
チャプターに沿って、女将の話は、若い頃の思い出、お義父さんからはじまる家族の話と展開していく。その場には再構成された旅館の無数の「もの」が展示してある。その「もの」は旅館の什器類があれば、レゴブロックもあるが、掲示された言葉に緩やかに結び付く。そうして、戦中、戦後、そして震災という女将の人生の道のりを歩くことは、そのまま清山の歴史を歩むことだった。まるで旅館が喋っているように見えた。


2018年6月2日 福島県福島市 《Like a Rolling Riceball》の会場風景(撮影:越後谷 出)

女将の人生の語りのなかで「震災」は、あくまでひとつの出来事として現れてくる。それゆえに戦争やほかの災禍と震災は地続きであることを思わせる。同時に、震災の出来事が、ひとりの人が生きる時間のなかで大きな意味をもつ出来事であることも感じさせる。真っ暗ななかでお客さんを迎えたこと、機動隊の支援を受け入れたこと、家族が体調を崩したこと……。どれもが具体的な体験だった。
震災とは個々人の体験のなかにある。その小さな体験を置き去りにしないことは、時間が経つほどに必要になる。また、そのとき掬い上げる言葉は、女将の語りにあったように、戦争などほかの出来事と並んで現れてくるのだろう。中﨑さんの作品を通して、震災後の東北の現在に触れたように思えた。これは震災後の「作品」なのではないか、と。このとき、震災から7年が経過していた。
震災をほかの出来事と並べることは、震災直後は批判を受ける語り方でもあった。震災と戦争は違う。そもそも、震災を何かと比べることなんてできない。目の前の圧倒的で具体的な体験を前に、ほかの出来事をもち出すことは、そこから目を逸らすことのようにも感じられた。
だが、時間が経つほどに戦争に限らず、現在、過去を問わず、さまざまな土地の厄災と震災の経験は実は地続きなのではないか、という語り方は増えていったように思う。震災の経験は、ほかの出来事に目を向け、耳を傾ける動機をつくった。時間の経過は、ひとつの出来事に距離をとって見ることも可能にしたのだろう。中﨑さんの作品に限らず、芸術祭では、ほかの災禍を扱う作品がいくつも展示されていた。それは原発事故を経験した「福島」だからこそ、語り出すことができたものでもあったのだろう。
2011年以降、プロジェクトFUKUSHIMA!は国内各地の芸術祭などに招待されてきた。中﨑さん曰く、数年前にある土地で活動したとき、福島のことは沖縄の話とつながっていると語った関係者がいたのだという。そのときはあまり議論にならなかったそうだが、「いまはわかるんだよね」とつぶやいていた。
震災後の表現とは、直後の行動だけではない。目に見えやすい震災の影響を表現するだけでもない。震災が生み出した態度から、機を見計らったように、だんだんと現れてくるものがある。そのとき、震災とそれ以外の出来事が混ざり合ってくることもあるだろう。震災後の表現とは「震災」を追うだけでは見えてこない。それ以外の出来事とともに見ていかないと出会えないものなのかもしれない。

出典

*1:中﨑透「大風呂敷のこと」『FIELD RECORDING vol.01』(アーツカウンシル東京、2018年)

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