Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

終わりに災禍のなかで語り出すために

「震災との違いはありますか?」。2020年になって、新型コロナウイルスの感染拡大の影響が大きくなるにつれ、そうきかれることが多くなった。「非常時」という意味では似ているところがある。でも、実際に起こっていることは、まったく違うともいえる。問われるたびに、口ごもってばかりいたと思う。それでも時間が経つなかで、震災後に獲得したものの見方は、いまを見据えることに役に立つとわかってきた。
2020年4月7日。国内7都府県に緊急事態宣言が発令された日の仕事からの帰り道。ふと、あぁ、自分は当事者なんだな、と思った。首都圏は他地域に比べて、圧倒的に感染者数が多かった。ニュースは首都圏が「渦中」であることを伝えていたが、そこで日常を過ごしていると脅威に襲われている感覚も少ない。陽性になった人がいる。感染のリスクが高い仕事に従事する人たちがいる。そうした違いを思い浮かべると、なお当事者としての実感は薄くなる。それでも確かに生活は変化しており、その変化を当事者だと自覚することで注意深く捉えることができるようになった。それは震災後の経験と照らし合わせることで獲得できた視点だった。今回は、自分が当事者である、と。
「当事者」。震災後に何度もきいた言葉だ。多くの場合、当事者とは自称するものではなく、誰かに名指されるものであり、それは被災者という言葉も同じだった。東北に通うなかで気が付いたのは「被災」は目に見える被害の有無にかかわらず、それぞれの人のなかに、それぞれのかたちで存在するということだった。その意味で、誰もが当事者だった。
でも、それを自認するのは難しい。近くの誰かと被害の多寡(たか)を比べてしまう。その多寡は、出来事との関係や地理的な距離が近ければ近いほど微細に見えてくる。外からは一括りに「当事者」に見える人たちの間には無数にグラデーションがある。
だから、震災直後は「ただいる」ことが大事だった。何かを語ろうとしなくてもいい。役に立つことをする必要もない。ただいる。その声に耳を傾けることからはじめる。それは震災後に出会った多くのアーティストから学んだ作法でもあった。震災が貼ったラベルを使わずに目の前の人と向き合うための方法だったといえる。
コロナ禍は、震災の経験を捉え直す契機にもなった。いま当事者のグラデーションはどのようなものがあるのだろうか? 「ただいる」ことはオンラインで可能なのだろうか?
震災後と現在では具体的な状況は異なり、これからたどる道のりも違うだろう。それでも、過去の経験を使うことで、未曾有の事態のなかでも語り出すことができる。そうした出発点をつくるために震災の経験は「役に立つ」。いまは、そう言い切れるようになった。
ここまで震災からの10年で、Art Support Tohoku-Tokyo(ASTT)を通して見ききしてきた断片を書きつないできた。最後にASTTと震災後の10年の流れを振り返ってみたい。それはひとつの災禍の経験において、時を追って現れる変化を見据える視点になるのではないかと思う。

初期:非常時の気付きを分かちもつ場をつくる

震災直後の壊滅的な状況から、物理的な復旧は早かった。2011年6月にASTTが立ち上がり、東北に通いはじめる頃には道路の瓦礫は取り除かれていた。それから数週間ごとに東北を訪れるたび、新たな道路が敷かれ、ぐにゃぐにゃに曲がったガードレールは新調されていった。初めは消えていた信号が点灯をはじめ、津波でかすれた白線もきれいに引かれ直された。季節が春から夏に変化すると、土煙の舞う茶色の風景に緑が生い茂るようになった。仮設住宅が整備され、仮の「住まい」に入居がはじまる。
そうした風景の変貌に伴うように、1年も経たない頃から、被災地内外の「非常時」のひりひりとした感覚は薄れていく。日常は思ったよりも早く戻ってきた。
一方で日常の気分に戻れる人と戻れない人の差は開いていった。震災を経験した人たちにとって、いつまでも体験は生々しい。生活再建の道のりははじまったばかりだった。非常事態に応答するように行動を起こした人たちは、一息つくことでどっと疲れが出はじめ、次の実践方法を模索するようになっていた。
ASTTの初年度は、震災後に変貌した状況に「応答」する事業が求められた。いち早く立ち上がったさまざまな活動を支えること、避難所や仮設住宅で身体を動かし、参加者同士の交流を促すようなワークショップを行うことなど、その後の継続性よりも、緊急的に欠けているものを補うような事業が多く、その数は10年のなかで最多となった。
秋を過ぎる頃から、震災後の経験について語り合う場が求められるようになった。駆け抜けるように重ねてきた実践の意義を問い返し、その後に続く実践の足がかりが必要な時期だった。
震災からちょうど1年が経つ頃に、せんだいメディアテークで「なんのためのアート」という大規模なフォーラムを開催した。定員は200人。「震災後、芸術文化の担い手たちは、どのような活動を形にし、つづけようとしているのか」と投げかけ、参加者が取り囲む舞台中央で3つのクロストークを行った(*1)。登壇者も参加者も言葉を探るように語り合い、独特の緊張感と熱を帯びた場が生まれていた。


2013年1月26日 宮城県仙台市 せんだいメディアテークで行われた
「なんのためのアート」の様子

非常時は、平時に内包していた課題を顕在化させる。それは裏を返せば、平時を書き換える可能性を見出すことでもあった。非常時の駆け抜けるような日々のなかで自覚的に立ち止まり、振り返ることは難しい。未曾有の経験を言い当てる言葉もない。そうしたとき、それぞれの経験を共有し、言葉を交わす場づくりが必要となった。
初動期には「議論をしている場合ではない」といった声が上がることもあった。どのような話題を、誰と、どのような場所で行うのかに注意する必要はあるだろう。そもそも、その場だけでは明快な回答が出ない性質の活動だともいえる。
非常時の熱を帯びた時間が過ぎた後にも、被災地では復興は長く続く。復興とは必ずしも「以前」の生活が戻ることを意味しない。非常時に垣間見たものを生かし、「以後」の生活をつくっていく行為だともいえる。急速に戻ってくる日常のなかで、初動期に「見えてしまったもの」を置き去りにしないためにも語り合い、互いの経験を分かちもつ場づくりは意識的に必要となるだろう。

中期:担い手や役割が変化するタイミングがある

震災から5年が過ぎる頃から外部支援は減少し、地域外から訪れる人たちも少なくなってきた。議論は震災後の状況にどう応答するか、というものから、これから数十年後を見据えて地域のことをどう考えていくのか、というものに変わっていった。その問題意識は担い手の変化と呼応していた。
この頃、地元で支援側に回っていた人たちの活動が落ち着きはじめ、じっくりと時間をかけた事業に取り組むことができるようになった。また震災後に経験を積んだ若い世代の担い手が前に立つようになり、自ずと震災を経験した地域の未来に目を向けた話が多くなっていった。ASTTも、特定の地域に複数年かけてかかわる本来のかたちになってきた。
わたしたちの役割も変化するようになった。各地域の活動が充実していくにつれて、ほかの地域の活動についてきかれることが増えた。自分たちの手で自分たちの地域をつくっていくことは望ましい変化に見えたが、地域内の担い手や知見だけでは閉塞感を生みつつもあった。
「これでは震災前と同じ状態だ」。そんな声もきいた。震災によって無理やりにだが「開かれた」状態は、閉じていきつつある。中間支援として、東北内外の人や情報をつなぎ直す役割を果たすことを意識するようになった。
2017年から発行をはじめたジャーナル『FIELD RECORDING』ではASTTに関する話題だけでなく、震災後の東北にかかわる担い手や表現を取り上げた(*2)。各地で震災以降にネットワークが育まれていたが、隣の地域で活動している人たちの情報を知ることは意外と少なかったからだ。また、震災直後にかかわったけれど足が遠のいている人や、関心はあるが、いまだ東北にかかわったことのない人にも声をかけた。時間の経過とともに膠着(こうちゃく)しつつあった関係性に橋をかける役割が求められているように感じた。
地域は異なるが、同じような問題意識が浮かび上がってくる時期でもあった。2020年に発行した『FIELD RECORDING vol.04』では東日本大震災に限らず、各地での災禍を取り上げた。時間が経つことで、震災を経験した人たちの間でもほかの厄災への関心が高まっていくようになったのである。各地で災害の記録は更新されている。その度に「震災」という言葉が東日本大震災だけを指さなくなっていった。そして、震災に対する社会的な関心が薄まり、次の世代に経験を「伝える」ことを意識したとき、過去の厄災がたどってきた道のりは参照しうるものだった。折しも、各地でメモリアル施設が建設され、伝承や継承という言葉を耳にするようになった時期でもあった。
体験の有無にかかわらず、異なる立場の人たちが、ひとつの出来事を分かちもつ糸口を用意する。近いけれど、出会えていない人たちが出会い直していくことや、後からその出来事にかかわろうとする人たちのかかわりしろをどうつくるか。それには時間の経過とともに訪れる担い手のリレーゾーンのようなタイミングを意識する必要があり、その出来事に対する切実さをもった「当事者」が、すべてを背負いこむことを避けることにもつながっている。

10年目:節目を使う

震災を経験した人たちの生活において、節目は暦通りに訪れたわけではなかった。外部支援の減少が起きた3年や5年の「節目」は、それを意識して気を張っていた人たちに年をまたいで疲れをもたらしたように見えた。切りのいい年数で語られる節目と、感覚的な時間の区切りには数年のタイムラグがあったように思う。
アーティストの瀬尾夏美さんは2019年に『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)を出版した。東京出身の瀬尾さんは震災後に映像作家の小森はるかさんと一緒に東北を訪れ、現地に住み、その経験から作品をつくってきた。本書は瀬尾さんが震災後の7年間にきいた話や考えたことを記したTwitterの言葉を時系列に記録している。
震災後の「あわい(間)」の時間は終わったのではないだろうか。7年、8年が経った頃、すでにひとつの大きな区切りが生まれていたように感じた。それは震災後に生まれた世代が言葉をもちはじめる時期であり、震災をひとつの出来事として継承するタイミングだった。
ASTTは10年で活動を終える。10年という節目に事業の終止符を打つことは、数年前から予期していたことだった。各地の事業は、8年を過ぎる頃から、その後の動きを検討しはじめた。それと並行し、わたしたちも独自に震災から10年目の企画を準備しはじめた。東京という場所性を生かし、東北の経験をより多くの人たちに発信するためのフォーラムを実施すること、そして現地では事業終了後にも続くであろう東北の人たちのネットワーク形成の場づくりを計画していた。2020年、コロナ禍によって、対面での企画が困難となったが、目的をずらさずウェブメディアを使った方法にシフトした(*3)。
「10年だからといって、特に何か区切りがあるわけではない」。宮城県仙台市を拠点にした「10年目をきくラジオ モノノーク」のパーソナリティーを務める一般社団法人Granny Ridetoの桃生和成さんは、そうはっきりと語っていた。節目があろうとなかろうと、この土地での生活は続く。震災が終わるわけではない。むしろ、この10年という節目をどう使っていくのかを考えているのだという。いまは「戦略的10年目」である、と。
災禍の経験は、生活の選択肢の幅を圧倒的に狭める。限られた、もしくは目の前に与えられた選択肢から選ぶことで、生活を続けることが求められる。そうした受動的な経験が続くことが「被災」なのだとしたら、自らの選択で日々の生活を営めるようになったときに日常生活が戻ったといえるのかもしれない。
「10年の区切りは自分たちでつくらねばならない」。2015年に阪神・淡路大震災が20年を迎えたとき、神戸の教訓を学んだ東北の人からきいた言葉だ。思えば、このとき初めて震災から10年というタイミングを意識することになったが、震災後の状況に能動的に向き合う転機として、暦の上の「節目」は使うべきなのだろう。

震災からの10年はあっという間に過ぎた。東北の地では、いまも震災後の時間が続いている。そして、いまや世界中が新たな災禍の渦中にある。これからの10年は、どうなるのだろうか? 先のことはわからない。それでも、わたしたちはすでに知っていることがある。災禍の「以後」には「以前」の社会が内包しているものが露わになる。未曾有の出来事を前に言葉を失ったとしても、過去の災禍に言葉を借りることで語り出すことができる。急がなくてもいい。時間が経つことで現れてくるものがある。震災後の東北の10年をたどってきた本連載が、それぞれの経験する災禍を語りだすための一助になってほしいと思う。

*1:「なんのためのアート」の動画は、3がつ11にちをわすれないためにセンター(せんだいメディアテーク)のウェブサイトで公開されている。

*2:ジャーナル『FIELD RECORDING』は「東北の風景をきく」をテーマに、2021年3月までに5号発行。ASTTウェブサイトにてPDFが閲覧可能。

*3:ウェブサイト『Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021』

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