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特集10年目のわたしたち

東日本大震災から10年目、
いま何を考えていますか?

心の底に降りてあるもの
椹木野衣(美術批評家)

『震美術論』は、自然災害による破壊と復興、そして反復と忘却を繰り返してきた日本列島の美術に向き合った著作です。地質学的条件から東日本大震災を捉え直す、広い視座を与えてくれました。椹木さんは、いま何を考えているのでしょうか?

2020年11月22日 執筆の息抜き

今回、「東日本大震災から10年目、いま何を考えていますか?」 という問いかけをいただいた。

そんなふうに主題をいただいて、僕があらためて気づいたのは、そのような問いかけにもとづいて文章を書こうとしている自分がいなかった、ということだ。

ふつうに考えれば、僕はあの東の大震災(大津波)と原発事故に大変な衝撃を受けて、それを自分なりに受け止めて、その後の美術批評家としての仕事を組み立て直してきたのだから、そして、そのことで被災地と呼ばれる場所に住む、あるいは住んでいた方々と、決して結ぶことのなかった縁と機会をいただいたのだから、10年という大きな区切りを前に、自分がいまなにを考えているかについて、いったんまとめて考えてみるのは、しごくあたりまえのことのように思う。

そのようなあたりまえのことを、なぜ、自分はしようとしていなかったのだろう。にわかに世界中を覆った新型コロナウイルスによるパンデミックという惨禍のせいだろうか。いや、違う気がする。ウイルスの蔓延はたしかに東日本大震災を上まわる世界的な衝撃と大きな犠牲をもたらしている。けれども、だからと言って東の大震災の余波と原発事故の処理が終わったわけではまったくない。

なので、ここでは、東日本大震災から10年目、いまなにを考えていますか? という問いかけをきっかけに、僕は、なぜ、そのような機会に特別になにかを考えようとしていなかったのかについて、考えてみたい。

と言っても、答えはかんたんではない。言うまでもなく、僕はなにか明確な理由があって、そのことについて考えようとしていなかったわけではないからだ。

だから、その理由を知るために、僕は僕の心の底に降りていかなければならない。そして、そのことで得られるのは、たぶん、はっきりした原因のようなものではない。それでも、その答えを探るためには、そうしなければならない。そういう気がしている。

心の底、それがどれくらい深いものかわからないけれども、たしかに、そこには深さのようなものがある気がする。誰かが掘った井戸のようなものではないから、その深さについて測ってみることは、むろんできない。しかしそれでも、ずんずんと、その先へと降りていくことができるような、そういう実感がともなう思索があることは、たしかだ。

そういう場所には、善悪というようなわかりやすいたぐいのものがない。そういう明暗がはっきりしてくるのは、もっとずっと浅い、意識の表層に近い場所だ。僕がこれから書こうとしていることは、そういう場所から汲み出されたものではない。だから、これから僕が書くことが、迂遠で、少しばかり不遜な響きを帯びているとしても、それについてはどうか許してほしい。こういう書き方をするからには、僕もそれ相応にふつうではないやり方をとることになるのだ。でも、そのことで誰かがいやな気持ちになるとしたら、それについては決して本意ではない。こういうことについては、そういう書き方しかできないのだ。

「悪い場所」の上で

まず、東日本大震災で僕は、結果として予想していなかったような利を得た。利を得た、というのは、突拍子もないようだから補足するけれども、損得の得だ。先に不遜に響くかもしれないと書いたのは、こういうことを言わなければならないからだ。でも、少し俯瞰的に距離を置いて自分を(幽体離脱的に? 離人症的に?)眺めてみれば、これはある程度まで客観的な事実なのではないかと思う。そして僕は、そのことをこの場で決して否定しない。

僕は、批評家としては一度倒れていて、それは1995年に阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きたからだ。そのとき僕は、もうこれまでのような書き方はできないな、とひとりごとのように声を発した。それまでの僕は、世界中どこでも、同じように多発的に進行している潮流のようなものがあって、それを「シミュレーショニズム」と呼んだのだけれども、大きな地震と化学兵器によるテロがあって、日本で都市とか首都とか呼ばれているものが、本当に地下から崩れ落ちていく様を目の当たりにして、世界を繋ぐ潮流であるどころか、批評には動かせない固有の場所というものがあることを痛切に気付かされた。

しかもそれは、歴史というものが成り立ちそうになると、そのそばからいくどでも流産してしまい、そのことを忘れた頃に、また同じことがほとんど同じように繰り返されるという、無限地獄のような「悪い場所」だった。なにがそれに似ているかというと、鏡合わせになって目が覚めない、目が覚めたと思ったら、それも悪夢の場面の一部だったというような、幾重にも折り畳まれた、悪夢といっても入れ子のようなものがそれに近いのだが、そこまではいちいち説明せず、僕はそれを端的に悪い場所と呼んだのだった。

そしてそれからほぼ10年以上は、そのことをさまざまな角度から眺め直し、たとえば戦争画(作戦記録画)に置き換えたり、1970年の大阪万博に照らし返したりしながら、悪い場所での批評を継続してきた。しかし、そもそもの悪い場所がそうであるように、それはいつのまにか主題の無識的な変奏のようなものになりかけていて、僕は批評家として「息詰まって」いた。いや、当時はそう思っていなかったかもしれない。周囲もそんなふうには感じていなかったはずだ。けれども、いま思えばそれはあきらかだった。

というのも、東の大震災と原発事故が起こり、僕の批評は一気に活性化し、批評家として生き返ったような気持ちになったからだ。もちろん他方では、見えない放射能の恐怖から逃げ、家族のために食材の産地を調べたり、ガイガーカウンターで周囲に汚染がないか測ったり、そういうこれまで体験したことがない不安にさいなまれながらも、それでも僕は、あきらかに批評家としては、もはや変奏ではないやり方で書く動機を新たに得ていた。巨大な地震と過酷な核災害は、あきらかに日本列島という地質学的な条件がもたらした、なるべくしてなった結果であり、1995年の西の大震災と地下鉄サリン事件と、規模の違いはあっても、目に見えない地下という悪い場所の構造的な基盤を通じて、きわめて密接に繋がるものだったからだ。

こうして「悪い場所」は、たんに観念的な批評の用語としてではなく、ほとんど地質学的な次元で遠い過去と接続され、僕のなかで戦後に留まらない領野として拡張された。そして、僕はそのことに基づいて、苦しんで数年はゆうに費やしながら、ようやく2冊の本を書いて世に出した。1冊目は『後美術論』といい、2015年に出て、その年のうちに吉田秀和賞を受賞した。『震美術論』と名付けたもう1冊のほうは、2017年に出て、その年度の芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。僕自身、それは嬉しいことだったし、周囲の知人や友人も、力を貸してくれた版元の方々も、そして田舎の両親も、まるで自分のことのように喜んでくれた。しかし僕は、嬉しいと同時に、どこか他人の不幸で僥倖を得たような違和感が、多少なりとも心に残った。

「見にいくことができない展覧会」

批評家としてのこうした執筆を続けるのに並行して、僕は生まれて初めて戯曲を書いた。1986年の日航機墜落事故と、東の大震災と原発事故が瓦礫(デブリ)のように凝集したもので、実は僕は戯曲を書くつもりはなかったのだけれども、それを掲載してくれた文芸誌の編集長によれば、結果的にはそう呼ばれるものになるのだということだった。2014年のことだった。そして、それを美術家でも演出家でもある飴屋法水に演出してもらう機会を得た。そして、そのことで演劇となった公演は、数日にわたって真夏の横浜で披露された。

タイトルは「グランギニョル未来」といい、そのときに主演を務めてもらった歌手でもあり美術家でもある山川冬樹と、震災後にSNSを通じて知り合いになった福島市の高校教員でもあり写真家でもある(かつては画家でもあった)赤城修司と4人で、同じ名前のユニットを組み、その年の暮れから、今度は繰り返し、福島県内の帰還困難区域に入ることになった。

このユニットは、帰還困難区域のなかで「見にいくことができない展覧会」を開くことを思い立ったアーティスト集団のChim↑Pomに誘われて、帰還困難区域が解除され、所定の場所に入域することが誰にもできるようになって初めて開く展覧会、「Don’t Follow the Wind」というプロジェクトを構成する12のアーティストのひとつとして活動することになった。展示は2015年の3月11日から始まり、現在もその会期中にあたる。おそらく、世界でもっとも長期にわたる国際現代美術展となるのではないか。もっとも、展示の「開催」はされていない。いつから開くかは、依然として未定のままである。

その展示が行われている場所は、帰還困難区域に所在する施設を管理する、ある避難者の方の厚意で使わせていただいているので、位置や場所は公開していない。それでも僕らは、多ければ1年に数度はそこに向かい、防護服を着てなかに入り、記録をとったり、展示を付け足したりしてきた。もとが演劇のためのユニットだったこともあり、「グランギニョル未来」の一部をその場所で再演したりもした。横浜のときと違って、観客は誰もいない。新型コロナで遠隔配信があたりまえになったいまなら、無観客公演と呼ばれるかもしれない(ただし記録だけで配信はない。そしてその記録の半分は、データのクラッシュによって永遠に失われた)。

いつかは、その様子のいったんが広く公開されるときがやってくるかもしれない。もしかしたら、それは東京でオリンピックやパラリンピックが開かれる2020年の夏かもしれないね、それは大震災と原発事故から復興した日本を世界にアピールする絶好の機会になるだろうから、その時分には帰還困難区域も一部が解除されて、そこに自分たちの展示があれば、見に来る人もいるかもしれないね、いまは時間が凍りついたように、2011年当時と変わりようにもなにも変わるものがなく、人っ子一人いないこの場所も、それでも少しは慌ただしくなるかもしれないね、などと話していた。

けれども、2020年になっても、けっきょくそのときは訪れなかった。オリンピック/パラリンピックはおろか、付近を通るはずだった聖火リレーも中止になったからだ。たしかに常磐線は全線開通したけれども、そこから僕らの展示のある「会場」までは道が繋がっていない。僕らがそこに行くときには、いつも常磐道を使ってインターを降り、あるところからは許可証を提示して身分証明書と照合し、封鎖されたゲートを開けてもらって、ようやくなかに入ることができる。入域時間は上限が決められているし、出るときにはきちんと放射能汚染がないか、スクリーニングを受けなければならない。

こうして、僕たちはたしかに活動を続けているけれども、そのことを知る人はいない。一度、帰還困難区域のなかで行った無観客の公演の合間に、その場を少しだけ離れ、座ると汚染された土がついてしまうので、立ったまま休憩した。そこは屋内だったけれども、窓が割れて外から風が吹き込み、それをしのごうとして足元がふらついた。僕はタイベックで踏ん張ってからだを支えたけけれども、周囲からは風の音のほかはなにも耳に届かず、そもそも防護服のせいで体内の音のほうが大きくて、すぐにあたりはしんと静まり返った。いったい自分はいま、ここでなにをしているのだろう。いま、ここはいったい何年のなんどきで、なにがあってここはこんなふうになっているのか、すっかりわからなくなった。記憶喪失というのは、きっとあんな状態が続くのだろう。

そんなとき、はたしてこれは、世で言うところのアートなのか、なにがしかの表現なのか、それはわからないけれども、とにかく誰かに対して発信する、そういうたぐいのものなのかどうか、すっかり疑わしくなった。ここは美術館でもなければ劇場でもないし、そもそもなんのために自分はこういうことをしているのか。いつかは、これが活動の履歴とか、業績と呼ばれるようなものに変わるのだろうか。誰かに称賛されるのだろうか、非難されるのだろうか、それとも無視されるのだろうか。褒められるのなら、そのほうがいいな、と一瞬思ったけれども、それ自体が不穏な思いつきのような気がして、すぐに打ち消した。

しかし、だとしたら、なんのためにこんなことを5年にもわたって継続しているのか、それがよくわからない。はっきりしているのは、自分は自分のために、誰かの力を借りてでも、こういうことをやりたいと思っている、ということくらいだ。こんなふうに、打ち消したり、肯定したりを繰り返しながらも、そんな意味不明の逡巡自体が、まったくの無駄なような気もするが、それでも、続けている。自分のなかに、それ以外の選択肢はないからだ。

こういう心境というのは、あれほどまでに大きな出来事が起きても、かんたんに精算できるものではない。5年が経とうと、10年が経とうと、20年が経とうと、質的に変化するものではないと思う。違和感を解消できるようなバランスの取れた心の着地点が、見つからない。ないなら、動機など忘れるしかない。しかし行っているという事実だけは、ひとときも忘れることができない。なんにせよ、会期中なのだ。そしてそれは同時に、批評家としての僕の活力源でもあるのだ。だから、これもきっと、なにがしかの僥倖ではあるのだろう。

二つの重石

こうしておそらく僕は、東の大震災と原発事故が起きて10年経っても、そのことの決着がうまくつかず、だから、切りよくそのことについて書こうという気持ちになれずにいたのだと思う。10年はたしかにひとつの区切りではあるけれども、そういう心に刻まれた痕跡のようなもの(それは、「トラウマ」というようなものでもない)にとって、10年というのは、同じ状態が、少し前の9年目と同じように、そのあとの11年目も、12年目も続くことの予告でしかないからだ。

そうして僕は、さらに心の底へと降りていく。そして、二つの重石のようなものが、かなり深いところに落ちていることに、気づくのだ。その重石の重みのようなものは、それだけ深いところに落ちていても、どういう反響の仕組みなのかわからないけれども、意識のかなり浅い部分、つまり日常の端々に突然、浮上することがあって、僕の気持ちを少し歪ませる。

東の大震災と原発事故は、たしかに僕に複雑な僥倖をもたらした。それについては、すでに記したとおりだ。しかしそれは、どの程度複雑であったとしても、僥倖であることに違いはないのだ。けれども、そのふたつの重石は、僕に、もう一度やり直そうとしても、絶対にやり直すことができない後悔に似た感情を、やはり同じ数の二つだけもたらしている。しかしそれは、なにか自分を責めれば済むようなものではなくて、放射能の影響が事後の自分のからだになにか災いをもたらしたかどうか、その因果関係を誰も証明ができないのに似ていて、ほんとうにそうすればよかったのかどうか、しなければどうにかなったようなものなのかどうか、僕自身にもわからないことなのだ。

はっきりしているのは、東の大震災と原発事故がなければ、僕はそういう選択をする場面そのものを、決して持たなかっただろう、ということだ。そしてそれは、僥倖などとはなんの関係もない。その内容について僕は、震災から10年目になにを思うのかについて考えようとして、なにも考えようとしていなかったことであらためて気がつき、その理由について考えようとしているうちにこの二つの重石につまづいて、そのことについて、この場で書くことができるかどうか、考えてみたのである。

けれども、それをこの場で書くことは、どうしてもできなかった。いつか、時が経てば、そのことについておおやけの場で書くことができるようになるのだろうか。それについてはなんとも言えない。そういうことについて書くには、10年というのは、あまりにも短い。

僕はいま、文字としては書かないまま、心の底から重石のように浮上しないこの二つの出来事に思いを馳せて、そのことをゆっくりと反芻するように思い返している。それはとても個人的なことで、仮に言葉にしてみたところで、なんの反響などないようなものだと思う。けれども、僕にとっては、東の大震災と原発事故がもたらしたさまざまな出来事のうちでも、最大級に大きな意味を持っている。

そしておそらく、そういうことが、誰の身にも程度の違いはあっても、それが震災の年に起きたのか、それから2〜3年が経ってから起きたのか、もっと最近になって起きたのかはわからないけれども、きっと起きたと思う。でも、そういうことは、なかなか語れるものではないし、文章に残せるようなものでもない。仮に残したとしても、それは日記のようなものとなり、机やパソコンの奥のほうにしまわれて、当分のあいだ誰の前にも姿を見せないか、もしくは永遠に遠くのほうへと消え去ってしまうか、あるいはその人が死んでから、不意に見つかってようやく伝えられるようなものなのかもしれない。でも、それは告白というほど重いものではないから、あ、そんなことがあったのね、というひと言で済んでしまうような気もする。たとえ、そのことが起きて何十年が経っていたとしても。そういうところでも、時間というのは絶対的なようでいて、あまり意味を持たないことがある。

そして僕は、そういうものこそが、東日本大震災と呼ばれる出来事が、本当の意味で一人ひとりの身に、ひそかに引き起こしたものなのではないか、といま思っているのだ。

連載東北から
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