Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

スタート

西條成美

もし、あの東日本大震災がなかったら、今の自分はどんな生活を送っていたのだろう。もしかしたらあのまま引きこもっていたのかもしれない。

当時、私は18歳で家に引きこもる生活を送っていた。高2の冬に高校を中退してから世間の「卒業」ムードに加わることができず、まるで世界からポツンと取り残され、置いてきぼりにされたような感覚だけがあった。そんな中震災が起きた。海に近い私の家はあっけなく津波に流され、漁師である父の「海元丸」という船も無くなった。けれど家族みんな無事だった。

あの揺れの最中、庭にいた父は大声で「こだづのながさ(コタツの中に)もぐれ!」と言った。その場にいた私は、咄嗟にケージの中にいるマルチーズの「ゴマ」を抱きかかえコタツにもぐり、母は作業服を羽織ったまま駆け寄った。こたつの中から外の様子を窺う。けれど「窺う」なんて余裕は皆無で「ひい!」と悲鳴を上げながら揺れが収まるのを願った。「神様…どうかお願いします」-。

父はすぐさまラジオを大音量にして「津波が来ます!」の警報が鳴った途端、「逃げろ!」と近所にも聞こえるように、強く言った。ラジオから聞こえる声は明らかに慌てていた。そして各々が財布だの携帯だのお金を車に詰め込み、高台へと向かった。パジャマ姿の私が持ったのは携帯電話とウォークマンと「ゴマ」だった。

それ以降生活は一変した。家がない、お風呂に入れない、着るものがない。これまで人を避けていた生活は震災によって必然的に「人と話さざるを得ない環境」となり、それは当時の私にとって非常に耐えがたいものだった。

けれどひしひしと感じていたのは支援してくださる方々と地元の方の存在だった。私たち家族を快く招き入れ、食べ物や洋服をわけ与えてくれたり、遠方からは美容師の方、著名人の方、医療関係の方、支援にまつわる方々を沢山見た。けれど自分の世界に閉じこもっていた私は感謝を述べる視野さえ持ち合わせておらず、歯がゆさを感じながらも周囲との会話は徐々に増えていった。自由に入浴ができなかった私たちは、髪のべたつきをネタにして笑い合えるまでとなり、人との繋がりがここまで癒しを与えてくれるとは思ってもみなかった。

毎年「3月11日」が巡ってくるたび、正直「なにを思えばいいのだろう」と考えてしまう。それは冷淡で、他人事で、優しくない考え方なのかもしれない。犠牲になった者、孤独になった者、それでも生きると誓った者、誰かを救った者、悲しみや怒りや悔やみや恐怖を抱えた者。それは本当に多くの人が体験した、大きな出来事だった。きっかけであり追い打ちでありスタートでもゴールでもあったのかもしれない。

私はスタートだと思う。そしてそのスタートは決して自分の力によるものではなく他者に授けられたものだったのだ。私がそうであったように。私も誰かにとってのスタートでありたいと強く願う。

自己紹介や手記の背景

1992年(平成4年)、石巻市北上町生まれ。東日本大震災で実家が被災し、実家の再建を機に親元を離れて仙台で暮らす。現在までにコンビニ店員、調理員、葬儀屋、ホテル清掃、ドラッグストア、書店員、漁業と様々なアルバイトを転々としながら生計を立てる。今年の春から石巻市で一人暮らしを始める。言葉、エッセイ、詩、絵の創作が好きで、夢は詩集を出すこと。

スタート

西條成美

自己紹介や手記の背景

1992年(平成4年)、石巻市北上町生まれ。東日本大震災で実家が被災し、実家の再建を機に親元を離れて仙台で暮らす。現在までにコンビニ店員、調理員、葬儀屋、ホテル清掃、ドラッグストア、書店員、漁業と様々なアルバイトを転々としながら生計を立てる。今年の春から石巻市で一人暮らしを始める。言葉、エッセイ、詩、絵の創作が好きで、夢は詩集を出すこと。

朗読

朗読:林ちゑ(青年団)

選考委員のコメント

筆者は、人間の力を越えて襲ってきた地割れと怒涛が、引きこもりの生活を送っていた自分の小さな世界を打ち破る力になったと語る。家も父親の漁船も失って、一変した暮らしの中で、はじめて「共に生きる」ことのありがたさに包まれながら、「閉じこもりの自分」から抜け出し、新しい自分を見つけていく様子が書かれていた。そして、彼女は言う。「(震災は)きっかけであり、追い打ちでありスタートでもゴールでもあった」と。震災という出来事が、一人の少女の心を開いていく様子を語って、訴えるもの多い手記になっていた。それがうれしい(小野和子)。

連載東北から
の便り