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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

もとちゃんへ

島津信子

「ザ・元気印」といったらもとちゃん、と誰もが言うあなた。ちょっと太めの体と大きな笑い声、細やかな心遣いと男勝りの行動力、そんなあなたは私の高校の先輩。

あの日も大地震の後、自宅の片付けもしないで、「停電したら酸素が止まっちゃう」と同じ町内に住む肺気腫のおじさんの家に車で向かったという。でも、その途中で黒い津波を見て、慌てて孫を迎えに戻ったんだよね。

幸い、おじさん夫婦もあなたの家族も命は無事だった。けれど、あなたの自宅も事務所も工事用の車も機械もみんな津波でだめになった。仮の住まいを転々としながら、借りた事務所で仕事を再開したけれど、働く人たちもみんな被災者。仕事の手配をしながら、食材の調達が難しい中でみんなの昼食まで作っていた。

実は震災当日、山のこちら側の実家にSOSを出したら、「こっちも地震で大変と言われた」と憤慨して縁切り状態になり、実家のお母さんとも会えなくなったという。だけど、あの時はみんな興奮状態で、山のこちら側にいては停電でテレビも見られず、いくらラジオで「数メートルの津波」とか聞いたって沿岸部の被害の甚大さは想像できなかったんだよ。私だって、数日後にガソリンを工面して山を越え、実際に自分の目で見るまでは信じられなかったもの。だから、私はその後、可能な限り多くの人に「被災地を自分の目で見て」と案内したよ。

その後も、もとちゃんは、おじさん夫婦の世話や学校に行けなくなった孫のこと、仕事のこと、家族のこと、何かと心を痛めることがずっと続いたね。

たまたま家業が工務店だったおかげで復興事業に携わり、仕事は増えていった。でも、震災前まで同居していた孫たち家族との同居は難しくなったからと、まずは長男夫婦の家を建て、下の息子さんの仕事も軌道に乗せてやり、最後に自分たち夫婦だけの平屋の家を建てた。でも、その完成を待たずして旦那さまは脳梗塞で入院、自分の胃も癌に冒されてしまった。

それからはみるみる痩せてしまって、今度は「こんなに痩せた姿を見せたら親が心配するから」ってやっぱり実家に顔を出さず、笑顔も減った。闘病生活をしながら旦那さまを介護していたけど、一昨年ついに帰らぬ人となった。

あの震災の日から、あなたは心も体もぼろぼろになるまでずっと走り続けた。津波に呑まれた私の知らない人の思いも背負っていたのだろうね。震災さえなかったらもっと穏やかに生きられただろうにと思うと悔しいよ。せっかく建てたお気に入りの家にはあなたの仏壇があるだけ。

被災死者名簿にも関連死者名簿にも載らないけれど、あなたはやっぱり震災の犠牲者なんだと思う。いまだ行方不明の人を探し続ける人、亡くなった家族を思い続ける人、生活の立て直しに力を尽くす人、遺構を前に防災を訴える人もいる。時間がたつにつれて心の中が風化しそうな自分を感じるとき、私はあなたがくれた鉢植えを見てはずっと考えているよ。

自己紹介や手記の背景

東日本大震災の地震や津波、被曝で亡くなった人の陰で、命は無事だったし仕事も順調だし、傍目から見ればなんの問題もなさそうにみえるけど、明らかにこの人も犠牲者だと思う人がいます。あの震災さえなかったらという悔恨の思い、それぞれの人にドラマがあってそれでも前に進むしかないのだし、悪いことだけじゃないと思える出会いやつながりも生まれました。この10年間で建物や道路や街が新しくなり表面上の復興は進んだかもしれないけれど、人々の心の揺れは続いています。いまだ避難し続けている人もいます。その後の各地での災害もあり、難しいことではありますができるだけ当事者意識で見つめ続けていきたいと思っています。

もとちゃんへ

島津信子

自己紹介や手記の背景

東日本大震災の地震や津波、被曝で亡くなった人の陰で、命は無事だったし仕事も順調だし、傍目から見ればなんの問題もなさそうにみえるけど、明らかにこの人も犠牲者だと思う人がいます。あの震災さえなかったらという悔恨の思い、それぞれの人にドラマがあってそれでも前に進むしかないのだし、悪いことだけじゃないと思える出会いやつながりも生まれました。この10年間で建物や道路や街が新しくなり表面上の復興は進んだかもしれないけれど、人々の心の揺れは続いています。いまだ避難し続けている人もいます。その後の各地での災害もあり、難しいことではありますができるだけ当事者意識で見つめ続けていきたいと思っています。

連載東北から
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