Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

消えた故郷

ほでなす

携帯が、繋がるようになると「無事に逃げて避難所にいるよ」と連絡がくる。でも、3日たち、4日たち、1週間過ぎても連絡の来ない友達がいた。新聞の亡くなった方のお名前欄に友達と同じ名前が掲載された。どうか別人でありますように……ドキドキして仕事が手につかない。やっと休みをもらい町の遺体安置所に行ったが、身内の人が引き上げた後だった。窓口の役場職員が偶然同級生だったので、確かに私の探している友達である事は確認出来た。彼女が嫁に行った家は、2階の屋根だけはそこにあった。近くの避難所には友達の身内の人達の名前はなかったので会うことが出来ないまま、すっかり何もなくなってしまった町を傍観した。

母は、震災後繰り返し映される故郷の壊れていく映像で認知症がひどくなり、「故郷で大事な人を探す」徘徊が始まり、介護疲れで父が倒れ、母もまもなく大好きな秋刀魚をのどに詰まらせ亡くなった。

震災の時は車を津波で流されながらも無事に避難所にいると連絡をくれた友達は、その後どんどん体が弱っていった。彼女から、「体が動かなくなる前に会いたい」と連絡が来た。
彼女は7月生まれ、私は8月生まれなのでその生まれ月のバースデイ・ベアを2つ用意して、「おそろいでもっていよう」とプレゼントしてくれた。それが形見になってしまった。
それから1年後の、震災から5年半経った夏の終わりに、肝硬変で亡くなった。

危篤の連絡が来て会いに行くと、朦朧として目も開かないのに、私の声を聞いて涙を流した。手を握ると力強く握り返してくれた。「クマのキーホルダー大事にするよ!」と声をかけたら、また涙を流した。帰り道、クマのキーホルダーのついた車を運転しながらわんわん泣けてきた。これで、本当に海の方面に行く用事は無くなった。そう思うと、津波で亡くなった友達とのほんとの別れを震災後初めて感じ2人分まとめて泣けた。

彼女の葬式はサン・ファン・バウティスタ号が停泊している近くのお寺で行われた。
穏やかな海が目の前に広がる高台のお墓に眠るらしい。その絶景から、サン・ファン・バウティスタ号が解体されるのはとても残念なことだ。震災にも耐えた復元船だったが、老朽化で保存が難しいらしい。

突然の電話は鳴った。姉が入院している病院からだった。先生の話によると、夕食が喉につかえ吸引し心肺蘇生をしているが戻って来るのは難しそうだと言う。「まさか、母と同じ死に方?」病院にかけつけたが、母の時のデジャブのように事が進んだ。

幼い頃からのすべての思い出の場所、高校、地元にいる親友もすべて消えた。
私の過去は、まるでリセットされたように無くなった。

震災から間もなく10年。津波に消された街は、おしゃれな新しい港街に生まれ変わっていた。まさしく、私はよそ者で、故郷でもなく、迎えてくれる友達も親戚もいない観光客だ。ただ、青い海と潮の香だけは変わらず私を迎えてくれる。

自己紹介や手記の背景

女川町出身で仙台に家族と暮らしています。東日本大震災で突然大親友を亡くし、その関連死とも言える状況で友達や親・姉妹を次々と亡くし空っぽになってしまった時、仕事で出会う人達にエールをもらい、立ち直って行くなか、彼女達が生きていた証を残したい。誰かに聞いてほしいと思うようになりました。
文章に残すだけでなく、私が失ってしまったものを絵にしている途中です。同級生が、地域のコミュニティーのお店を始めたと知り、私も、動きださなければと新しい仕事もはじめました。確かに、その街で暮らしていた人々がいたこと、たくさんの人に聞いてほしいと思います。

消えた故郷

ほでなす

自己紹介や手記の背景

女川町出身で仙台に家族と暮らしています。東日本大震災で突然大親友を亡くし、その関連死とも言える状況で友達や親・姉妹を次々と亡くし空っぽになってしまった時、仕事で出会う人達にエールをもらい、立ち直って行くなか、彼女達が生きていた証を残したい。誰かに聞いてほしいと思うようになりました。
文章に残すだけでなく、私が失ってしまったものを絵にしている途中です。同級生が、地域のコミュニティーのお店を始めたと知り、私も、動きださなければと新しい仕事もはじめました。確かに、その街で暮らしていた人々がいたこと、たくさんの人に聞いてほしいと思います。

選考委員のコメント

被災地女川の出身だが、ずっと仙台で暮らしてきたという筆者ーーこういう関わり方で、被災地を見つめ続ける人たちがいる。
その人たちは、時には、どこか二重苦のようにさえ見える複雑な心境で「10年目」を迎え、その人たちらしいやりかたで動き出そうとしている。
「ほでなす」さんは、絵を描こうとしてると言う。嬉しい言葉だ。きっとたくさんいるに違いない「被災地」の外で、その人らしいやりかたで「被災」した人たち、そこに希望があるという思いがする(小野和子)。

連載東北から
の便り