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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

茨城県の東日本大震災

監督

早いもので、震災から10年が経つのですね。
東日本大震災以後も、日本は地震や台風の被害など、つくづく災害の多い国だと思います。

震災があった時、私は茨城県土浦市に住みながら、常磐線を使って、東京の北区田端まで遠距離通勤をしていました。地震が来るちょっと前に、会社で山形県より来社していたお客さんを送り出し、席に着いた時地震が来ました。その時54歳だった私は、今まで経験したことのない揺れに、驚くと共に「これは大変なことになった」と思い、テレビで情報を得ようと思いました。

テレビでは、被害が刻一刻と伝えられているのですが、全体像がつかめません。ただ分かったのは、都内の電車が全て止まったという事。私は人事部へ掛け合って、帰宅困難な社員を、今日職場に宿泊させる許可を貰い、私自身は実家がある足立区綾瀬まで歩くことにしました。携帯で今日行くことを、母親に伝えたかったのですが、携帯が繋がらないので、途中見かけた固定電話で電話したら繋がり実家に被害が無いことが分かり、これから家に行くことを伝えました。しかし地震が発生してから、何度も家内に電話をしたのですが繋がりません。北区田端から、実家のある足立区綾瀬まで、今まで歩いたことはありませんが、それしか方法が無いので、兎に角歩きました。国道4号を、北に向かっていると、東京を出る大勢のサラリーマンやOLが長い列を作って、黙々と歩いています。サラリーマンの中には、防災用のヘルメットを被っている人も見かけました。2時間歩いて実家に到着しました。テレビでは、繰り返し、三陸海岸を襲った津波の映像が流されています。正直怖かったです。その日は、悶々として眠れず、それでも次の日は、歩いて会社に向かいました。家内と連絡が取れたのは、次の日の夜でした。家族と家に被害は無いが、停電・断水で何もできないと言います。ただ家族が無事で、家にも被害が無いことを知って、一安心しました。常磐線の被害が酷く、復旧するのに1週間かかり、開通と同時に土浦駅に降り立ちました。2kmの道を歩いて行ったのですが、桜川沿いの道が液状化して居たり、5階建てのビルが傾いたりしていました。家内からは、無事だと聞いていましたが、実際に見るまで、とても心配でした。家内に今何が一番困っているかと聞いたら、1週間お風呂に入っていないから、体が痒いと言います。家内は敏感肌で、毎日お風呂に入らないとかぶれてしまうのです。土浦市は1週間たっても、断水が続いていて、給水車による配給を行っているため、お風呂に使う水が手に入りません。それを聞いて、私の知り合いで、井戸のあるところに連絡し、井戸水を分けて貰って、家内をお風呂に入れました。家内の喜んだ顔が今でも忘れられません。

東北の被災は多くのメディアに取り上げられましたが、茨城県も津波や土地の液状化、断水等々大きな被害を受けました。改めて皆さんにも知って欲しいと思い書きました。

自己紹介や手記の背景

東日本大震災は54歳の時に罹災しました。当時自宅がある茨城県より、2時間をかけて東京へ通勤していました。今は、同じ県内である、つくば市へ車通勤していますが、10年経って、改めて当時の事を記録したくて投稿しました。地震の際、茨城県にも津浪は来たし、土地の液状化や断水・停電と、被害は甚大でした。ただマスコミに取り上げられることも少なく感じていました。その辺も伝えたいと思いました。

茨城県の東日本大震災

監督

自己紹介や手記の背景

東日本大震災は54歳の時に罹災しました。当時自宅がある茨城県より、2時間をかけて東京へ通勤していました。今は、同じ県内である、つくば市へ車通勤していますが、10年経って、改めて当時の事を記録したくて投稿しました。地震の際、茨城県にも津浪は来たし、土地の液状化や断水・停電と、被害は甚大でした。ただマスコミに取り上げられることも少なく感じていました。その辺も伝えたいと思いました。

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