Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

青空に泣く

吉野舞

あの日、震源地からとても離れた場所にいて、午前中、中学校の卒業式があった。式は長く退屈で、思った以上に疲れてしまったので、午後に終わってまっすぐに家に帰って、自分の部屋で昼寝をした。14時46分、揺れも感じず、まだ寝ていて、確か15時30分くらいに起きて、なんとなくボーッとしながらテレビをつけた。そしたら、津波の映像、アナウンサーの叫び声、止まらない気象庁の速報、ただ目に入ってくる情報を拾うのに必死で、恐怖、悲憤、驚き、どの感情も湧いてこなかったことを覚えている。なに一つ実感が湧かなかった。

その後、福島第一原子力1号機から3号機の原子炉がメルトダウンし、水素爆発を起こした。現実はあいまにひずみを生じはじめ、被害がほぼなかった小さな私の街にもそのひずみがきた。数日経つと、関東からの人々が避難してきて、東京で暮らしていた姉も一時的に帰ってくることに。姉は東京の友人に「逃げる場所があっていいな」なんて、言われたみたい。スーパーに行くと、福島産の農産物がたくさん売れ残っていた。

春休みの間、メディアはずっと震災に関連したものだったから、とにかく今、日本で何が起こっているのか知らないといけないと思って、ほぼ毎日新聞やテレビを見ていた。チェルノブイリのことは知っていたけど、「シーベルト」「ベクレル」と、今まで聞いたことがない言葉がネット上にも飛び交い、分からないものがもっと分からなくなり、車酔いした時のような重苦しさがただ身体に残っただけに。

高校生になったある日、隣の席の女の子とふと震災の話になり、「私たち普通の赤ちゃん産めなくなるのかな」と、不安を言葉にした。なんて答えたらいいのか。学校では放射能のことは教えてくれないし、原発事故は自然災害ではなく人災だと思うから、「仕方ない」と言って流れに身を任せていいことではないのは分かる。だけど、こんなことを考えるようになったのも、卒業式の日で自分の子供時代が終わったからなんだ。と、ふとそう思った。校舎の狭間で空を眺めながら、ひとつふたつの涙を流しながら、私は自分の無力さを憎んだ。

10年経っても、あの時できたひずみは日本中に広く深く生じている。過去の震災のことを「歴史の悲劇の物語」として消費することだけは絶対にしたくないと思う。私は被災者じゃないから、その「痛み」は分からない。何度も想像するけど、それは他者から語り継がれた声を集めてできた小さな物語だ。被災者の悲しみや苦しみを自分のものにすることは決してできない。だけど、私もあなたも、あの時どんな場所にいたとしても、経験を語り継いでいくことはできる。15歳の私には知らなかった言葉や、方法、新しく出会った人たちと一緒に。このことは25歳の私の背中を大きく押してくれる。

※ 本手記は、水戸芸術館 現代美術ギャラリー「3.11とアーティスト:10年目の想像」展を通してご応募いただいたものです。

自己紹介や手記の背景

2011年3月11日は中学校の卒業式でした。クラスメイトと別れることより、ニュースで見た震災の方が遥かに胸に突き刺さった。水戸芸術館で震災についての展示を見て、自分も作品に共鳴するようにこの文章を綴りました。あの日、私の半径5m圏内で起きた出来事はほとんど記憶に残っているはずなのに、言葉にできたのは本当に一握り。震災に対する一時的な感情は過ぎ去っても、悲しみは心の中にずっと残っているんだなと確信しました。この感覚を忘れるものかと思います。今年、震災について学ぶため、釜石市の津波伝承施設で同世代の子も活躍しているという "語り部ガイド“さんに実際に話を聞きに行こうと思います。

青空に泣く

吉野舞

自己紹介や手記の背景

2011年3月11日は中学校の卒業式でした。クラスメイトと別れることより、ニュースで見た震災の方が遥かに胸に突き刺さった。水戸芸術館で震災についての展示を見て、自分も作品に共鳴するようにこの文章を綴りました。あの日、私の半径5m圏内で起きた出来事はほとんど記憶に残っているはずなのに、言葉にできたのは本当に一握り。震災に対する一時的な感情は過ぎ去っても、悲しみは心の中にずっと残っているんだなと確信しました。この感覚を忘れるものかと思います。今年、震災について学ぶため、釜石市の津波伝承施設で同世代の子も活躍しているという "語り部ガイド“さんに実際に話を聞きに行こうと思います。

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