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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

疾走する牛

山崎倫明

陸上自衛官だった私は、震災当時、群馬県に所在する第48普通科連隊の連隊長でした。定年前の最後のポストでした。
48連隊は創立10年目を迎え、3月11日の午前中に駐屯地の体育館で10周年記念式典を行いました。その夜には前橋市内のホテルに部内外の来賓を招いて祝賀パーティーを開催する予定でした。
午前の式典が終わり連隊本部で定例の会議をしていたときに群馬も大きく揺れました。
会議を切り上げ連隊長室のテレビをつけましたが、大津波警報と到達予想時刻が繰り返されるばかりでした。「最大震度7」と画面に表示されるまで――たぶん数分だったと思いますが――随分もどかしかったのを覚えています。震度を確認すると同時に派遣準備と祝賀パーティー中止を指示しました。
やがて、津波のライブ映像がテレビに流れました。平成5年の北海道南西沖地震(奥尻島の津波)の災害派遣の経験と重ね合わせ、これまでにない大規模な災害派遣になると覚悟しました。夜には原発事故の情報を受け、放射線を考慮した準備を加速しました。
ポケットで携帯電話が震えたのに気づくと、震災の少し前に定年した防衛大時代の同期生から「俺たちの分まで頼むぞ」とメールが届いていました。入隊して30数年、実戦のない平和な時代に訓練を続けてきたのはこの日のためだったのだと決意を新たにしました。
48連隊は即応予備自衛官主体の連隊です。4月に栃木・群馬・新潟・長野県在住の即応予備自衛官約300人を招集して南相馬市で行方不明者の捜索活動をしました。即応予備自衛官を訓練以外で招集したのは初めてでした。
私自身は群馬と南相馬市を何度も往復する機会があったのですが、Jヴィレッジに寄るため、いわき市から国道6号線沿いに南相馬市に向かったことがありました。原発事故の影響で立入制限された国道は信号も消えていて、時折救援車両が通るだけでした。沿道の店舗のガラスは割れていて、人影はなく、ゴーストタウンを思わせる様相でした。
突然私の車の横に1頭の牛が現れました。猛スピードで路肩を並走してくるのです。残された家畜が食べ物を求めてさまよっていたのでしょうか。なぜか「猿の惑星」のエンディングの場面が頭をよぎりました。
腰まで水に浸かりながら行方不明捜索に当たった南相馬の被災地の光景は脳裏に焼き付いていますが、国道を疾走する牛の姿も頭から離れません。
今年1月に、感染症対策のため3月に予定していた48連隊創立20周年祝賀パーティーを中止する旨の連絡が届きました。あれから10年の節目に、つくづく因果なものと思います。3月25日にJヴィレッジを聖火リレーがスタートする様子をテレビで見て、10年後には、平穏に30周年祝賀パーティーに呼ばれたいものだと思いました。

※ 本手記は、水戸芸術館現代美術ギャラリー「3.11とアーティスト:10年目の想像」展を通してご応募いただいたものです。

自己紹介や手記の背景

震災当時、群馬県の陸上自衛隊第48普通科連隊長。招集された即応予備自衛官約300人とともに南相馬市の災害派遣に参加しました。即応予備自衛官制度が発足して初めての招集のため、試行錯誤しながら、自衛隊の現場で「震災」を体験しました。震災の年の9月に陸上自衛隊を定年退職、再就職した民間会社も昨年65歳で定年退職し、現在はパート(ガイドヘルパー)。2月28日に茨城県視覚障害者福祉センター主催の水戸芸術館「3.11とアーティスト:10年目の想像」展鑑賞会に視覚障害者のガイドとして参加し、当時のたくさんの記憶がよみがえってきました。

疾走する牛

山崎倫明

自己紹介や手記の背景

震災当時、群馬県の陸上自衛隊第48普通科連隊長。招集された即応予備自衛官約300人とともに南相馬市の災害派遣に参加しました。即応予備自衛官制度が発足して初めての招集のため、試行錯誤しながら、自衛隊の現場で「震災」を体験しました。震災の年の9月に陸上自衛隊を定年退職、再就職した民間会社も昨年65歳で定年退職し、現在はパート(ガイドヘルパー)。2月28日に茨城県視覚障害者福祉センター主催の水戸芸術館「3.11とアーティスト:10年目の想像」展鑑賞会に視覚障害者のガイドとして参加し、当時のたくさんの記憶がよみがえってきました。

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