Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

連載東北からの便り

2020年リレー日記

2020

6

6月8日-6月14日
萩原雄太(演出家)

6月8日(月)

天気|晴れ

場所|自宅(東京都北区滝野川)

■『俺が代』という、日本国憲法をテキストとして使用したレパートリー作品を16日に下北沢の本多劇場で無観客公演として実施することが決まっていて、先週からその稽古を行っている。しかし今日は休み。無観客公演なのだけれども、ゲネプロ(本番と同様の最終リハーサル)についてはごく一部の関係者は見れるようにするので、そのお知らせを10人くらいに送る。
■先週から始めた稽古は、いくつかの変更点を加えて順調に進行している。けれども、根本的に「無観客」であることと「劇場」を使って行われることがまだ腑に落ちてない。今回、この公演は生配信こそしないものの、ビデオ収録はするので、例えば「収録」と言ってもいい。けれども、そうしなかったのはなぜだろう? まだ自分でもよくわかっていない。
■「集まる」ということについて考えるようになったのは、確か5月に入ってから。なぜ「劇場を使うのか?」あるいは「劇場とは何か?」という問いは、「なぜ、観客は劇場に集まるのか?」という問いと切り離せない。集まれないことが前提となった中で、改めて「劇場の価値とは何か?」を考えたい。
■コロナ前は劇場に「集まっていた」のかと言えば、そうではなかったのかもしれない。「劇場の社会的役割」といったテーマで議論が行われることもしばしばだが、多くの人々にとって、劇場とは「ただのコンテンツの消費の場」であった側面のほうがはるかに大きいだろう。
■2〜3ヶ月ほど、ほとんど全世界で劇場が閉鎖された後、僕は、演劇を上演するというリアリティが全く感じられないでいる。コロナ禍を経て、例えば『ゴドーを待ちながら』を上演したら平時とは別の切実な意味を持つだろうし、今公演を計画しているチェーホフの『かもめ』だって、確かな強度を持っていることが実感できる。でも、それを劇場のような閉ざされた空間の客席に縛り付けられて見たいとは思わない。外部に広がっているコロナ禍という状況に対して、観客席と舞台とで分け隔たれた芸術の形式がうまく拮抗できるとは思えない。

6月9日(火)

天気|晴れのち雨

場所|自宅(東京都北区滝野川)

■今日も稽古は休み。公演についていろいろと考え事をしながら最近読んでいるジュディス・バトラーの『アセンブリ−行為遂行性・複数性・政治−』を読んでいたら昼寝をしていた。
■家にいると気分が鬱屈としてくるので、ノートと水筒を持って飛鳥山公園に行く。まだ腰が定まっていない『俺が代』無観客公演について考える。緊急事態宣言中よりも人が減っている。
■そもそも、公演をするにあたっては「対象」が必要になる。でも、それは、マーケティングにおける「ターゲット」みたいなものとはちょっと違う。祭りが「神」に向かうように、あるいは、以前上演した『福島でゴドーを待ちながら』という公演が「十年後の人、あるいは外国人(つまり距離が遠い人)」へ向けられたような意味で、今回の公演における「対象」とは何か? 「態度」が向かう矛先とでも言い換えられるだろうか。「神」でもないし、「未来」でもない、「演劇史」でもないような気がする。「対象」は、抽象的なものではなく、打てば響くような手応えのあるものでなければならない。
■今回、「無観客公演」と言うからには、この公演形態でなければならない必然がほしい。それが、たまたま映像に収められている。
■もうひとつ、9月に上演予定のチェーホフの作品『かもめ』についても考える。
■コロナ禍を経て、「ソーシャルディスタンスを守って集客し、公演を行いました」では何もおもしろくないし、「コロナなんか関係ない! 演劇をやるぞ」という蛮勇もない。今の状況だと9月には平穏になっているということも予想されるから「ああ、演劇をまた見れるようになってよかったね」ということになるかもしれないが、それならば、むしろ積極的に中止にしたい。今回の公演は、コロナ禍に対する応答であってほしいと思うし、だからこそ、9月にやる必然性があるものにしたい。
■つまりそれは、コロナ禍を受けた意味での「演劇とは何か?」とならなければならない。その中でも、「集まる」という要素をどのように解釈するかはとても重要となるだろう。例えば、『アセンブリ』に書かれてる「私たちがともに暮らすのは選択の余地がないから」という言葉はなにかのヒントとなり得るのでは? あるいは、チェーホフが書いているのは対話劇を装ったモノローグである。それをあえて複数人の登場人物が「集まって」対話を展開している。これもヒントになるかもしれない。
■『俺が代』の美術を担当する横さんと電話。この作品は舞台美術として鉄の木を使っていて、今回はそれを新調する。別にエレベーション(立面図)があるわけでもなく、どのようになるのか持ってくるまでわからない。多分、本人もわからない。

6月10日(水)

天気|晴れ・強風

場所|自宅(東京都北区滝野川)

■秋葉原に行って買い出し、後、稽古。
■出演者の清水から連絡が入る。劇場で使用する体温計が使えるかどうか確認するために計測したところ、37.2℃だったという。体温の他は普通。少し悩んだ末、今日は稽古を中止にしようということにする。
■本多劇場も加わっている小劇場協議会という団体の指針では、誰であっても「37.5以上の発熱が見られる方につきましては劇場内へのご入場をお断り致します」という文言がある。誰かが37.5℃以上の発熱となったら、きっと取りやめという判断を下さなきゃならない。演劇なんて、そもそもが本番当日にひとつの空間にいなければならないという脆弱な前提の上に成り立っているのに、その足場はさらに脆弱になっている。
■調べる。37.5℃はひとつの目安に過ぎない。37.2℃は平熱の範囲であるとも言えるようだ。そもそも、平熱が何度かなんて気にしたこともなかった。
■新型コロナウィルスに感染しているのでは? という心配はあまりしなかったけれども、今後、どのようにすればいいのか、どのように考えればいいのか……と考え始めると、パニックのように取り乱すわけではないが、ただただ途方に暮れる。
■新宿まで出てきてしまったので紀伊國屋書店で本を買って帰る。時間が生まれたのに、何もする気になれない。気づいたら寝ていた。

6月11日(木)

天気|雨

場所|自宅(東京都北区滝野川)〜稽古場(西東京市)

■朝、清水の熱は下がっているという。人間は、夕方くらいに熱が上がるものらしい。
■今後、演劇をやる上で、しばらく自分の体温を把握するというのは前提条件となるかもしれない。僕が夕方の稽古前に体温を測ったら36.8℃。
■今日の稽古は、大事をとって僕と俳優、舞台監督という最低限のメンバーだけで実施。通し稽古(芝居を始めから終わりまで通して稽古をすること)1回目。なかなか悪くはないと思う。見ながら、それまで、あまり見えてこなかったこの公演の「対象」に、もしかしたら「憲法」を代入できるのではないかと思った。
■憲法を使った作品を、憲法を対象とするというのも変な話だけれども、憲法は、実に広い範囲の射程を含んでいると思っている。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるのだ。その歴史の積み上がってきたものの先端・末端に、ここはある。その射程は、「対象」足り得るのではないか? ……まだ、この理屈では自分自身が説得されきらない。もう一声ほしいところ。
■稽古終わってから改めて話をする。どのようになったら稽古を中止するのか、あるいはどのようになったらこの公演を中止するのかの確認。
■当たり前のことだけど、演劇は、公演当日に出演者とスタッフがその場にいれることを基本とする。これまでなら、ちょっと重い風邪を引いてても、動いて劇場に来ることができるならなんとか乗り切れていた(人間の集中力って本当にすごい)。でも、今は些細な体温の変化で、それが感染症でなくても公演はあっけなく取りやめにしなければならない。本番という未来を見られない中で演劇を行うことは、とても難しい。
■では、スーザン・ソンタグは、どのようにして戦争下のサラエボで『ゴドーを待ちながら』を上演できたのだろうか?

6月12日(金)

天気|曇りのち雨

場所|自宅(東京都北区滝野川)〜稽古場(西東京市)

■今回、本番は無観客だけど、ゲネプロ(本番同様のリハーサル)には、ごく親しい関係者が見に来るという普通とは逆の形。送ったメールへの返信からは、「劇場に足を運べる時」を待っていたことも読み取れた。今ならば、きっと劇場で演劇を見る特別さに浸ることができるだろうし、「やっぱり人が集って演劇を見るのはいいな」と思ってしまうかもしれない。その素朴さは素晴らしいものである一方、そこに流されてもしょうがないとも思う。「前との接続」ではなく「前からの切断」を意図している。
■この無観客公演はビデオに収録されて、東京都がやっている「アートにエールを!」というアーティスト支援プログラムに提出することを前提としている。その採択通知の連絡が来た。とりあえずほっとする。
■このプログラムに対して、僕自身はかなり批判的な意見を持っている。『俺が代』という作品において、尾崎行雄の演説をテキストとして使用しているのだけれども、その中で、当時の国会議員たちに対して「抱負がない」と熱弁する。それを援用するならば、このプログラムに、あるいはこのプログラムに採択された個々のクリエイションに「抱負」はあるのだろうか? 
■通し稽古2回目。昨日のバランスのほうがよかったけれども、まあ塩梅の範囲。
■今回のバージョンでは、主に3つの大きな変更を加えている。これまで、徹底的に抑制することを念頭においていた憲法の条文を読むシーンは、もっと憲法の条文にワクワクしたり、喜びを感じていいのではないかと思っている。玉音放送を使ったり、SEを追加したりしているのは、もっと外部からのいわゆる「演出」を追加していいのではないかと思ったから。これは、コロナ禍で、海外の公共劇場がつくったレパートリー作品を見まくった影響かもしれない。つまり、繊細な味付けみたいなのよりも、はっきりとした味付け(当社比)にしている。それと、クライマックスとなる部分において肝となるセリフを削除した。それがなくても大丈夫な作品に成長させたい。
■木が完成したと美術の横さんから連絡、写真を送ってもらう。これまでと全然印象が違う。さて、こいつをどう使ったらいいものかとは思うが、実際に見ないとどういうものかわからない。明日明後日の稽古で、幾つかの選択肢を用意しておかなきゃいけない。

6月13日(土)

天気|雨

場所|自宅(東京都北区滝野川)〜稽古場(西東京市)

■稽古場に行く中央線の中で、ふと、オンライン演劇という形式の問題(あるいは可能性)は演技者が「いない」ことではなく、観客が「行かない」ことなのではないかと思った。それに付随して『かもめ」の公演においてあるひとつの方法を思いつく。
■通し稽古3回目。なかなかいいと思う。どうしても、数回通して作品を見るまでは、ある部分が「できているかいないか」といった頭の中のチェックリストが抜けないのだけれども、だんだんとそれを外して全体を見れるようになってくる。
■帰路、24時台の山手線。もうすでに、電車で席を一つ空けて座る風習はなくなっている。あと、座席に突っ伏したり、ベッドみたいにして寝ている人が多くなった。人が増えてきたといってもまだ空いているからだろう。高校生の頃に、音楽のライブを見るために東京に行った帰りに幾度となく乗っていた深夜の常磐線でもよくそういう人がいた。山手線の常磐線化。
■まだ本番をやってないから暫定的なことではあるが、『俺が代』という作品は2019年に東京、名古屋、沖縄のツアーをして、それでもう打ち止めかなあとなんとなく考えていたのだけれども、この先もできるのかもしれない。そう思った根拠は、この作品で使っている憲法の言葉や政治家の言葉がやっぱり魅力的であること、座組の人々が、この作品を現在形で魅力に感じられていること、あとは勘。

6月14日(日)

天気|雨

場所|自宅(東京都北区滝野川)〜稽古場(西東京市)

■外に出たけれども、マスクを忘れて家に戻る。実は昨日も忘れていたので2日連続。危機感が足りないのか?
■西ヶ原駅前のハンバーグ屋の行列が復活していた。
■稽古最終日。稽古は1日4時間×2週間しかしていない。この作品は何回も再演しているのだから、普段、非効率の極みのような我々といえども少ない稽古時間で済む。ただ、やっぱりもうちょっと時間がほしい。公演としての形はすぐに作れるけど、現在の問題意識などを丁寧に共有したいと思ったら再演作でも相応の時間がかかる。
■でも、通常の公演時のように、1日7〜8時間の稽古を行うことはちょっと難しい。ただでさえ演劇の現場は精神的に疲れるのに、その上肉体的にこれ以上疲れてしまったら、免疫力が低下して、感染のリスクも上がる。今は、例えば、空腹時にコーヒーを飲んだ後に生まれる胃のささやかな不快感のような、極めて小さな体調の変化にも恐怖を感じる。コロナ後の演劇というと、集客の問題にフォーカスが当たりやすいが、クリエイションの現場における不安のマネジメントも考えなければ、まともに作品をつくることができない。
■劇場に持っていく荷物を積み込んだあと、俳優、舞台監督、制作の聡美さん、美術の横さん、そして横さんが召喚したカズオくんと話、夜中まで。80%くらいバカみたいな他愛もない話。20%くらい真面目な話。「日常」だなあと感じる。それは、素朴に嬉しい。
■まだ、無観客であることについて、劇場で行うことについては、完全な決着がついていない。
■明日から小屋入り(劇場に入っての設営)。ゲネプロをして、明後日から無観客本番。

萩原雄太

(演出家)
1983年生まれ。2007年よりかもめマシーンを設立し、東京都を中心に活動。個人の身体と社会との関わりに焦点を当て、2011年には、東京電力福島第一原子力発電所事故の避難区域から数百メートルの場所で『福島でゴドーを待ちながら』を上演。日本国憲法を扱った『俺が代』は、2017年ルーマニア国際演劇祭Temps dʼImages Festivalに日本の劇団として初めて招聘される。第13回AAF戯曲賞、利賀演劇人ンクール2016優秀賞受賞。2018年、シアターコモンズ’18、TheatreTreffen International Forum(ベルリン)参加。