Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2020

連載東北からの便り

2020年リレー日記

2020

8

8月3日ー9日
岡村幸宣(原爆の図丸木美術館 学芸員)

8月3日(月)

天気|晴れ

場所|原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)

数日前まで降り続いた雨の影響で、美術館の隣を流れる都幾川の水は、例年になく増えていた。
写真家・映像作家の新井卓さんの率いる撮影班が、朝いちばんに来館する。丸木美術館にとって、8月は年間でもっとも来館者の多い時期だ。しかし今年は新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、気軽に「来てください」と言えない。8月6日の「ひろしま忌」のイベントも中止となり、被爆した死者たちを追悼する「とうろう流し」だけを行うことになった。そのため、せめてオンライン動画でメッセージを発しようと考えている。
4月9日から6月9日にかけて、丸木美術館は臨時休館を余儀なくされた。その間に立ち上がった緊急支援の寄付は、6月末現在で国内外から5,800万円を超えるほど集まった。寄せられたコメントに目を通していくうちに、この美術館には、実際に訪れる方だけでなく、簡単には来られないけれども支えたいと思っている方が大勢いるのだと痛感した。今まで見えなかった/見てこなかった人たちと、国や言葉の境界を超えて、「原爆の図」を支えていく手応えを共有できるのか。それは今後の美術館にとって、重要な課題となるだろう。
「原爆の図」の前でカメラがまわり、新井さんから投げかけられた質問に言葉を探す。「75年は草木も生えない」と言われた原爆投下から、75年の歳月が過ぎた。多くの人が紡いできた言葉の蓄積を糧にしつつ、今この瞬間でなければ発せない言葉を見つけたい。それは決して簡単ではない試みだ。絵を前にして、何度も沈黙の時間が流れた。
午後の撮影では、丸木俊の姪で絵本作家の丸木ひさ子さんが、とうろうに絵を描き、川に浮かべた。たったひとつのとうろうの灯。下流で待ち受け、流れてきた灯をつかまえる。夕闇の近づく空を、オハグロトンボがすべるように飛んでいく。

8月4日(火)

天気|曇り

場所|自宅(埼玉県川越市)

家の前に植えた檸檬の樹のまわりを、アゲハチョウが飛んでいた。美しい光景だが、産みつけられた卵が孵化すると、幼虫は葉を食い荒らす。かわいそうだが、幼虫は見つけ次第取り除かなければならない。朝から命の選別をしている。
午前中、書斎にこもって、直近に迫った「原爆の図」の講演会の準備を進める。体験者の減少にともない、近年は、原爆の記憶の継承が重要な課題とされている。しかし、他者の記憶をどう「継承」すればよいのか。厳密に考えれば考えるほど、その困難を痛感する。それでも絵の前に立つことの意味を、どう考えたら良いのか。過去と現在、そして未来へと思考を往来させながら、「原爆の図」をはじめとする他者の記憶を、どのように生かしていくのか。簡単に答えが見つからない問いを、聞き手の皆さんに投げかけたい。限られた時間のなかで、果たしてうまく話せるかどうか。
午後は丸木美術館へ。夏休みに入って、来館者は増加傾向にある。感染症対策も気になるが、都心の美術館・博物館に比べれば、まだ「密」というほどではない。
館内をまわり、砂守勝巳写真展「黙示する風景」の会場で足をとめる。2月下旬からはじまった企画展は、臨時休館をはさんで会期を延長し、8月末まで開催することになった。11年前に死去した写真家のまなざしで捉えた釜ヶ崎、広島、雲仙、沖縄。美術批評家の椹木野衣さんが選んだ写真は無人の街が多く、期せずして現在の社会を想起させる。例外なのは釜ヶ崎で、路上で酒を飲み、倒れて眠り、あるいは座り込んで笑いかける人々の表情に心が安らぐ。高齢化の進んでいる釜ヶ崎の街は、この疫病の時代に、どんな状況になっているのだろう。

8月5日(水)

天気|晴れ

場所|都幾川(埼玉県東松山市)

午前中、都幾川で、とうろう流しの準備を行う。地元のボランティアの皆さんが、川へ続く道の草をきれいに刈ってくださっている。
模擬のとうろうを浮かべて、川の流れをチェックする。川の表情は毎年変わる。例年であれば、下流の瀞(とろ)でとうろうはゆっくりと動きを止めるが、今年は水量が多いので、勢いに乗って流れていく。とうろうを回収する若者たちには、十分注意するよう伝えなければならない。岸辺に石を集めて、とうろうの流し場所の足場を固める。草刈りボランティアのIさんは、とうろうが途中で岸辺の草に引っかからないように、竹を使って誘導路をつくってくれた。白く熱い日差しが、川面に反射してまぶしい。汗が噴き出て、首に巻いたタオルを濡らす。ようやく本格的に夏が来た、と実感する。
午後はテレビ朝日のニュース番組の撮影班が来館し、臨時休館の経緯と緊急支援についての取材を受けた。閉館後にはNHKのラジオ番組「Nらじ」の電話インタビューを受ける。「原爆の図」の説明からはじまり、今の時代に「原爆の図」を見る意味、次の世代に伝えるための工夫、丸木美術館の「場」としての役割など、いくつかの質問に答えていくうちに、あっという間に15分の生放送が終わる。
夜、新井卓さんから、3分程度にまとめた「ひろしま忌」配信用の動画が届いた。丸木ひさ子さんの温かい人柄が伝わってくるメッセージ。明日のネット配信の準備を整えて、早めに眠りにつく。

8月6日(木)

天気|晴れ

場所|原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)

ひろしま忌。原爆が投下された時刻である8時15分は、毎年、美術館へ向かう電車の中で過ごす。スマートフォンで時刻を確認し、Twitterの「1945ひろしまタイムライン」を見る。もし75年前にTwitterがあったら、という設定で、実在する3人の日記をもとに、実際の時間とシンクロしながら投稿が行われるというNHK広島放送局の企画。仮想空間に、決して追体験のできない「そのとき」が訪れる。顔をあげると、車窓の外には穏やかな田園風景が広がっていた。
例年であれば、朝から汗だくになって駆けまわり、イベントの準備や進行、片付け、来客の挨拶などに追われる。しかし今年は、午後からぽつりぽつりとボランティアが集まり、夕方のとうろう流しに向けて、ゆっくりと時間が流れていく。本当は、ひろしま忌は静かに過ごす方が良いかもしれないね。受付のM子さんと、そんな話をする。今年はできないことが多いので、何をいちばん大切にするのか、立ち止まって考える機会が多い。
夕方、原爆観音堂の前で黙祷。それぞれ自作のとうろうを持って、都幾川へ下りて行く。映像作家の藤井光さんや、砂守勝巳の娘の砂守かずらさんも、お子さんを連れて参加してくださった。子どもたちは嬉しそうに、川の中へ入っていく。追悼にしては賑やかな雰囲気だが、ろうそくに灯をともすと、時間と距離を超えて75年前の広島に接続する気がする。
とうろうを流し終えると、子どもたちは川に向かって小石を投げ、水切りをはじめた。腕に覚えのある「名人」のIさんが、コツを伝授している。下流の方では、水着に着替えたボランティアの若者たちが、ときおり泳ぎながら、流れてくるとうろうを次々と回収している。
カナカナカナカナ……ヒグラシの鳴き声が、木霊のように響く。

8月7日(金)

天気|晴れ

場所|原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)

美術館の前のクヌギの大樹に、雄のカブトムシが一匹とまっていた。
ひろしま忌が終わっても、丸木美術館の日常は続く。「原爆の図」はいつもと変わらず、天窓から差し込む自然光に照らされている。誰でも、ここに来れば「原爆の図」を観ることができるように、美術館の扉を開く。今年の春、臨時休館を決断するときは、その判断が正しいかどうか、最後まで悩んでいた。今は逆に、感染者数だけ見れば春先より状況が悪化しているので、このまま開館し続けて良いのかと迷いながら、日々を過ごしている。
午前中、実習生やボランティアのHさんといっしょに、とうろう流しの後片付けをする。回収されたとうろうの残骸を解体し、紙は捨て、板やろうそくは翌年のために残しておく。テントや看板を物置に運んで片づける。たまったゴミを可燃と不燃に分別して、事務職員のYさんがワゴン車で市のゴミ処理場まで運んでいく。
午後は、毎日新聞の夕刊に連載中の原稿をまとめ、担当記者に送る。丸木美術館のコレクションを紹介する全6回の企画。最初の2回は「原爆の図」を取り上げたが、今回は丸木スマの《めし》を選んだ。
丸木スマは丸木位里の母親。70歳を過ぎてから、子どものように伸びやかな絵を描きはじめた。《めし》は、ネコのような小さな生きものたちが数匹集まって、画面中央に置かれた皿に頭を突っ込み、餌を食べている様子を描いた絵。この絵の光景は、今風に言ってしまえば「密」である。それでも、先の見えない時代に生きる力を皆でシェアしたいという思いを込めて、紹介することにした。

2020年8月8日(土)

天気|曇り

場所|自宅(埼玉県川越市)

少しは休みをとるように、とM子さんに言われて、完全休養の一日。午前中、散髪に行き、駅前の書店に立ち寄る。帰宅後、明日の講演会に向けて、最後の準備。童心社の広報誌『母のひろば』のゲラ校正。新井卓さんから、ながさき忌に配信するための5分ほどの動画メッセージのデータが届く。
夕方、画家の吉國元さんが家に訪ねてくる。吉國さんは親の仕事の関係で、1985年にジンバブウェに生まれた。10歳で日本に移り住み、今は、記憶の中のアフリカの人たちと、日本に来てから出会ったアフリカ出身の人たちの肖像を、油彩や色鉛筆で描いている。肖像はそれぞれ額装されているが、その小さな額入りの絵が連なり影響し合って、大きな連作になるという興味深い構造。今春、川越のスペースNANAWATAで開催した展覧会には「来者たち」というタイトルをつけた。
「来者」という言葉は、詩人の大江満雄がハンセン病者について「癩者は来者である」と書いたことに由来している。吉國さんは、来者=境界を超えて来た人との出会いに希望を感じ、「ジンバブウェに始まり、そして今も生まれようとしている、ずっと先の未来へと連続する生の顕れ」と読み替えて、展覧会のタイトルに引用した。そんな話を聞いたのは今年のはじめだったか。その後、「境界」や「距離」という言葉は、いつの間にか異なる意味をもって、私たちの日常に迫るようになった。
吉國さんの話す近況と新作の構想に耳を傾ける。先の見えない時代はしばらく続きそうだが、人は生きる時代を選べない。むしろ混沌の時代にこそ、歩む道が定まることもあるのかもしれない。

8月9日(日)

天気|晴れ

場所|OGU MAG(東京都荒川区)、成田市文化芸術センター(千葉県成田市)

ながさき忌。午前中、田端のギャラリーOGU MAGに立ち寄る。会期最終日を迎えた「Reimagining War」は、奥山美由紀、小原一真、木村肇、林典子という4人の写真家の、今も戦争と地続きにある物語を記録した展覧会。
旧知の木村さんから、林さんを紹介される。林さんは、1959年から25年ほど続いた朝鮮民主主義人民共和国への帰国事業で海を渡った「日本人妻」の、その後の人生の聞き取りと撮影を続けている。画廊の壁には、一見、無造作のようで計算しつくされた配置で、彼女たちの人生の痕跡を示す写真がならんでいた。すぐに故郷へ帰れるようになると信じて越境し、そのまま帰れなくなった「日本人妻」たち。両親に会うこともできずに、異国で生涯を閉じることになった彼女たちの思いを、写真家は冷静に距離を置いて、つまり観る人の情感をかきたて過ぎないように気を配りながら、そっと差し出している。林さんの話を聞くうちに、長崎に原爆が投下された時刻――午前11時2分は、いつの間にか過ぎていた。
午後は千葉県成田市のスカイタウンホールで、「原爆の図」についての講演会。成田市では戦後75年記念事業として、「原爆の図」の複製展を開催中である。300人収容の会場に80人限定、講演者と観客の間も透明シールドで分断する厳戒体制。辛うじて互いの存在を認識できるという意味では、オンラインより良いかもしれない。それでも距離の遠さを言葉で縮めようと力むほど、円滑に言葉が出なくなった。
顔を合わせて対話をするという「普通」の行為が、いかに私たちにとって重要であったか。身体感覚を分断されたまま、気が抜けたように帰宅する。
明日からも丸木美術館は忙しいだろう。夏はまだしばらく終わらない。