Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

津波さえ来なかったら

目黒とみ子

2011年3月11日午後2時46分東日本大震災発生。その後に起きた福島第一原発爆発事故による住民の避難の様子を、宮城県に避難し、双葉町の住民で作った避難者の会(双萩会=そうしゅうかい)で、会員の皆さんが語ってくれたのは小野和子先生やみやぎ民話の会の編集協力を得て一冊の本『双葉町を襲った放射能からのがれて わたしたちの証言集』とし、まとめることができました。44名のこのうえない貴重な話でした。震災から5年目のことです。2016年3月11日。

本が出来上がってホッとしたころ、ミュージシャンの内田ボブさんのコンサートが、福島県小高区にある同慶寺で行われると聞き、夫と二人で出かけていきました。お寺の本堂の中でしたが、コンサート中の歌【ぼくらは地球を愛しているか 地球がぼくらを愛しているほどに】と歌の間に、ボブさんの近況報告の話がありました。
「ボクは震災の時、オーストラリアにいたので、びっくりしました……」
私は東日本大震災が、外国のオーストラリアに、どのように伝わったのかを知りたいと思い、ボブさんに話を聞きたいとお願いしました。快く話してくれて、まとめてみると、それはとても貴重な話でした。震災のその日にオーストラリアにいたということ、そしてなかなか聞くことのできない話だったからです。
オーストラリアでは、住民による日本に向けた救済活動が行われていたそうです。インドネシアのバリ島に渡るとき、ボブさんは原住民のアボリジニの人達からメッセージを託されました。オーストラリア全土のアボリジニ共同声明ということで「福島の人たちに伝えてください」という次の内容でした。
【福島の人たちは、今回の原発事故によって大変だったと思います。遺憾に思っています。燃やされているウランは、私たちの大地から採られたものです。不幸の責任を感じています。地震・津波は止められないが、自分たちができる事として又しなければならない事として、世界が核の脅威から解放されるまで戦い続ける事を誓います】
託された声明文を文字化したのを見て、ボブさんは涙が出てきたそうです。
長野県に住みながらオーストラリアまで出かけて行き、燃料となっているウランの事を調べてみたいと思った内田ボブさんの頑張りを無駄にしたくないと思い、後世に残すものの一つとして書かせていただきました。

令和2年6月、私は東京の中学二年生が書いた証言集の感想文を小野和子先生から送って頂きました。上杉魁人(ウエスギカイト)君は学校の授業で本の感想文を書く事になり『双葉町を襲った放射能からのがれて わたしたちの証言集』を読み書きました。文章に感動し翌月の7月号広報ふたばに掲載し、双葉町住民の皆さんに読んでもらいました。

この事故は人災だと判断されましたが住民への心無い言葉こそが人災だと僕は思います。「人生はどんな道に出会おうと……」 目黒さんが励まされたという小野さんの言葉は僕の脳裏にも深く刻まれている(※)。

※ 編注 小野和子さんの言葉は「人生は どんな道に 出会おうと 歩きつづけていくうちに 光に 満たされていくのではないかと思います 暗ければ 暗いほど 光が見えてくるかもしれません」(『双葉町を襲った放射能から逃れて』収録)。

自己紹介や手記の背景

双葉町にも地震・津波そして原発事故が起きました。3月12日の朝、防災無線から「双葉町民は全員川俣小学校に避難してください」と放送がありました。全町避難です。私は家を出る時2~3日で帰れると思ったので何も持ちませんでした。でもその道は二度と戻る事のできなかった道だったのです。夫の友人が「こちらに来て落ち着いてよく考えてから前に進んだ方がいいのではないか」と誘ってくれる人がいました。その人を頼って宮城にはいったということになります。4ヶ月テント生活でしたが、みやぎ民話の会に入会させて頂き、たくさんの事を教えていただきました。避難後は11回転居し、現在は茨城県に住んでおります。10年目の心境としては、ピンチはチャンス。悪い事ばかりではありませんでした。

津波さえ来なかったら

目黒とみ子

自己紹介や手記の背景

双葉町にも地震・津波そして原発事故が起きました。3月12日の朝、防災無線から「双葉町民は全員川俣小学校に避難してください」と放送がありました。全町避難です。私は家を出る時2~3日で帰れると思ったので何も持ちませんでした。でもその道は二度と戻る事のできなかった道だったのです。夫の友人が「こちらに来て落ち着いてよく考えてから前に進んだ方がいいのではないか」と誘ってくれる人がいました。その人を頼って宮城にはいったということになります。4ヶ月テント生活でしたが、みやぎ民話の会に入会させて頂き、たくさんの事を教えていただきました。避難後は11回転居し、現在は茨城県に住んでおります。10年目の心境としては、ピンチはチャンス。悪い事ばかりではありませんでした。

連載東北から
の便り