久保田洋一
ハナミズキは既に散り、高田高校に上がる道すがら、色とりどりのアジサイの花が雨に打たれて、その彩りいよいよ妖しいまでに映える頃、その人は64才の生涯を閉じました。令和2年7月10日脳死判定、12日大船渡病院初の脳死下臓器提供への解剖が行われて、心臓など5つの臓器が全国の5医療機関を通じ何方かの命を助けて、今も生き続けています。
私がその人Kさんと初めて会ったのは、平成24年6月20日のお昼過ぎでした。東日本大震災の被災地をこの目でと、長野を出発し三陸を北から南下する一人旅の途上、大船渡からのバスを降りバス停前で電話を借りて、市内案内を高田タクシーに頼みました。約20分待たされやっと来たドライバーがKさんです。無口な彼が途中で突然、「ここが私の家だ」と。まだガレキが山積みで旧中心市街地の、屋根と外壁だけの市民会館近くでした。お互いの写真を撮って名刺交換し、気仙沼で別れ仙台に向かいました。この時カメラケースを車に忘れたことが、その後長野で「被災地オテガミプロジェクト推進チーム」を立ち上げ、今日まで「オテガミ」6000件以上を陸前高田に取次ぎ、同市を16回も訪れて交流を深めるきっかけとなりました。ケース返還に際してのやり取りで彼の朴訥ながら誠実な人柄に触れ、信州から離れた陸前高田を近くしてくれたのでした。この時頂いた高価な震災写真集は以後、私達の活動の色々な場面で活躍してくれました。私が送った家庭菜園で作ったジャガイモなどを、当時仮設で中一のお嬢さんと二人暮らしで料理に造詣が深い彼は、その無農薬野菜を大変喜んでくれました。その後現地訪問の際には必ず寄り、時には上り込んでこだわりのチャンチャン焼きをご馳走になっていました。当時横浜から転居したばかりの私は、居場所づくりにと入った長野県シニア大学を卒業直後で、その仲間に事の次第を説明し、現地に行かずとも被災地の皆さんを励まし、同時に思っても、時間的・資金的等の理由で出来ない方々の想いを取り次ぐ「被災地オテガミプロジェクト」を始めました。
その後公営住宅に移ってから病に倒れて愛犬サスケとの散歩も出来ず、サスケに先立たれ「こてつ」(猫)が加わったが、ご本人は冒頭の通りで、彼との最後の会話は確か5月中旬頃、娘・Aさんの所在を尋ねると「どっかへ行った」でした。
昨年3月、長野で被災者5人を招待してのイベント交流会を開催した際、パネリストとしてAさんにもお願いしました。震災当時中学1年生で、将来マンガ家を目指す彼女が思いを綴った創作マンガ『潮騒』を、交流会参加者220名に配布し、堂々と聴衆を相手に話をしてくれました。小さい時に母と死別、大震災、そして父の脳死判定決断から臓器提供の決意をして病院から心を籠めて見送り、今凛々しく一人で生きている女性がいます。79才になる私にとって、この強い人と知り合いになれた事は、私の79年の人生への最大の贈り物です。Kちゃん安らかに。
震災にはそれぞれのドラマがあり、かさ上げされた土の下に埋もれてしまった。しかし、各々の方の胸の内に生きている。我々はあの新しいまちを歩くとき、そして耐えている皆さんと会う時、そのことに想いを馳せると、自ずと気色(けしき)が変わる。
最後の数ヶ月仙台を引き揚げ、介護で臨終の父に寄り添う娘さんの悔しさ(彼女の、そして父Kさんの)、感謝、葛藤、親子の軋轢等々、彼女からの数少ない言葉から、父の死を無駄にせず生きていた証を残したいとの気持ちから、「臓器提供」に至ったと推測できる。
いずれにしても他の親しい方々も同じだが、大きな試練を乗り越えた人のしなやかさ・レジリエンシーは物凄いものがあり、人生の最後の局面にこのような方々にお会い出来た事に感謝すると共に、もうひと踏ん張りと勇気をいただき、この活動を続けていて良かったと実感している。
久保田洋一
震災にはそれぞれのドラマがあり、かさ上げされた土の下に埋もれてしまった。しかし、各々の方の胸の内に生きている。我々はあの新しいまちを歩くとき、そして耐えている皆さんと会う時、そのことに想いを馳せると、自ずと気色(けしき)が変わる。
最後の数ヶ月仙台を引き揚げ、介護で臨終の父に寄り添う娘さんの悔しさ(彼女の、そして父Kさんの)、感謝、葛藤、親子の軋轢等々、彼女からの数少ない言葉から、父の死を無駄にせず生きていた証を残したいとの気持ちから、「臓器提供」に至ったと推測できる。
いずれにしても他の親しい方々も同じだが、大きな試練を乗り越えた人のしなやかさ・レジリエンシーは物凄いものがあり、人生の最後の局面にこのような方々にお会い出来た事に感謝すると共に、もうひと踏ん張りと勇気をいただき、この活動を続けていて良かったと実感している。