近藤乃子
あの日、あの時は、9年前のあの時に未曾有の大地震に遭遇した一人ひとりに、年月では拭いきれない重く辛い悔しさが残っております。瞬時にありとあらゆるものを砕き去って行ったのですから。
私達の避難所は空き店舗でした。コンクリートの上に新聞紙を敷いての生活になりました。雪が降り、寒さと空腹とのたたかいでした。主要道などが寸断されているので食料が届きません。高台の家の人たちがお米などを持ち寄り、ほんの少しずつ食べたのを憶えております。みんな無口になり不気味な夜を過ごしました。1週間後に救援物資が届きました。私と主人は、やっと道が通れるようになった時主人の友人が迎えに来て、大船渡にお世話になりました。主要道はほとんど海岸線を走っていたので通行不能となり、救援物資などを貰いに山側の道を遠回りして高田に通わなければなりませんでした。車がやっと通れるようにはなっていましたが、山のような泥の中に造られた道でした。毎日そこを通るたびに見えてきたのは、泥の中からスコップで一掬いずつ泥を掬って、側溝を掘り出している人たちの姿でした。泥だらけの手で汗をぬぐいながら、それでも笑顔で黙々と作業をしておりました。学生ボランティアの人達だと思います。今立派になった道を通るたびに、あの泥だらけの笑顔の若者たちのことが思い出されます。あの若者たちは今どこで、どんな大人になっているかしら? この立派になった道を見て下さったかしらと必ず思い出します。この目立たないボランティアさん達のことはあまり記録にも残っていないんじゃないかと思いながら、この過ぎてしまえば忘れ去られそうな人たちの存在に感謝の念を抱いております。本当に有難うございました。私は、これら一人ひとりのご苦労の積み重ねが大きな力となって今日の復興があるのであり、決して忘れてはならないと思います。日本中いや世界中から大きなご支援をいただいておりますが、このボランティアさん達の存在を語り繋いでいきます。ありがとうございました。
私がこの度、書いたこともない拙い文で投稿しようと思ったのは、長野県の水害時にボランティアさん達がリンゴの木を助けてこの秋に収穫できたニュースでした。そうだ! 私だけが忘れない事も大切なことですが、これから機会あるごとに訴え続けなければ埋れてしまうと思ったからでした。あの時のボランティアさん達の中のお一人でも、この投稿を聴いて頂けたら、あの汚い、きつい時の事を忘れないでいる人がいる事を伝えたいと思って書いております。11月で85才になります。今私に出来ることは笑顔でまわりを和ませることぐらいです。
近藤乃子
私がこの度、書いたこともない拙い文で投稿しようと思ったのは、長野県の水害時にボランティアさん達がリンゴの木を助けてこの秋に収穫できたニュースでした。そうだ! 私だけが忘れない事も大切なことですが、これから機会あるごとに訴え続けなければ埋れてしまうと思ったからでした。あの時のボランティアさん達の中のお一人でも、この投稿を聴いて頂けたら、あの汚い、きつい時の事を忘れないでいる人がいる事を伝えたいと思って書いております。11月で85才になります。今私に出来ることは笑顔でまわりを和ませることぐらいです。