Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

10年と僕と

八月朔日

「あの日の夜はほんとうに星がきれいでねー……。星になって光ってるんじゃないかって本当に思っちゃったんだよねー……」
この10年の間、沿岸出身である母から、数えるほどだが、同じ言葉を何度か聞いた。それが、いつ、どんな時に発されたか、1つも覚えていないが、その台詞がただ僕の記憶の中で重なっている。
あの時そんなこと思っていたんだ、とはじめて聞いた時思った、ことすら朧気だ。
10年前の僕は、カーナビのワンセグから流れてくる、故郷が津波に飲まれる中継映像を、どんな思いで、この人は見つめていたのかと、考えたことがあった気もするし、避けてきたような気もする。僕にも10年が流れていたんだと、素朴に感じる。

その日は、中学校の卒業式を翌日に控え、卒業式の予行演習をしていました。
母に車で迎えに来てもらっていて、家への帰り道にいました。通学路を、午後のあの時間に通ることなんてあまりなかっただろうから、きっと予行演習だけの早帰りだったんだと思います。

その時刻。あれっとなって、車を寄せて、停車。うわ大きいってなる。その県道沿いの電柱がぐにゃぐにゃしている。近くにあるデイサービスのような施設から、おばあちゃんや若い女性がどんどん出てくる。車いすの方も何人か。

そのあとは全体的に曖昧です。築50年弱だった家が潰れていないか、祖父母がつぶされていないか、本当に心配でした。家が見えるとひとまず安心したのを覚えています。そして、余震でつぶれるといけないからと、車に避難。大丈夫だ俺はいかねえと母と口論する今は亡き祖父。結局皆で車に避難。そこで、ワンセグの映像を見ました。小さい画面。何度も訪れていた馴染みの地名がアナウンスされ、車が巻き込まれている黒い大渦を見たのを強く覚えています。クラクションがずっと鳴っていた。

夜は蝋燭で過ごしました。翌日、卒業式が決行されるかどうか、両親が車で見に行ってくれました。その日は中止。でも、それを知らせる張り紙が校門に貼ってある映像を、なぜか僕も再生することができます。本当は3人で一緒に見に行ったのかもしれません。

その翌日か、次の日か、そう経たないうちに、母は1人で、車を飛ばして沿岸に向かいました。それだけは確かです。

新年度になる前に卒業式はコンパクトに執り行われました。僕の2009年から2011年までの中学校生活が終わることに感極まって素朴に泣きました。

震災直後からの高校生活、振り返ると、あまり震災に関連している記憶が無いのです。クラスには沿岸出身の生徒も何人かいて、仲良くなった子もいました。すぐ隣で、僕が共有できない時間を彼は過ごしていて、隣で僕はあまりに無垢に過ごしていたんだ、と気づいたのは岩手を離れてからでした。僕はここに、内陸被災した自分、を見てしまいます。罪の意識というのは、言い過ぎでしょうか。でも僕にはこう書くことがよぎっている。今でも、日常の隙間で、ふとよぎることがあります。

自己紹介や手記の背景

この前、新聞記事の見出しで、今の高校生らを「震災を経験する最後の世代」と表現する言葉を見ました。なるほど、最後の世代って、戦争を体験したおじいさんやおばあさんだけを指すのではないんだなと、素朴に印象に残りました。内陸被災をした私には、卒業式のことや車のカーナビで見た映像や、蝋燭、などの断片的なモチーフの記憶があり、それ以上でもそれ以下でもないのが、私の震災体験でした。でもそうじゃない子と隣同士で高校生活を営んだ。その違いを今でも整理できずにいます。そのことを書こうと思いました(失敗します)。そして、当時は無垢だったが、今ここに書いているように「最後の世代」は「遅れて言語化する」んだという事も。

10年と僕と

八月朔日

自己紹介や手記の背景

この前、新聞記事の見出しで、今の高校生らを「震災を経験する最後の世代」と表現する言葉を見ました。なるほど、最後の世代って、戦争を体験したおじいさんやおばあさんだけを指すのではないんだなと、素朴に印象に残りました。内陸被災をした私には、卒業式のことや車のカーナビで見た映像や、蝋燭、などの断片的なモチーフの記憶があり、それ以上でもそれ以下でもないのが、私の震災体験でした。でもそうじゃない子と隣同士で高校生活を営んだ。その違いを今でも整理できずにいます。そのことを書こうと思いました(失敗します)。そして、当時は無垢だったが、今ここに書いているように「最後の世代」は「遅れて言語化する」んだという事も。

連載東北から
の便り