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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

ふるさとはいつまでも輝いている

太田眞樹子

私は震災の2か月後から約4年間、仙台市の嘱託の看護師として仮設住宅を毎日訪問し、健康支援の仕事をしました。ここに仮住まいをする方々の多くが津波で家を流された世帯でした。その中で高齢の方々から聴く「ふるさと」の話に大変心を動かされました。子供の頃の地域の様子、年中行事や祭り、遊び、食べ物、親たちの様子、家業のこと、田畑での農作業、嫁としての苦労、趣味の話などなど「ふるさと」がいきいきと語られました。そして、話している方のその時の表情がなんとも和んでいるのです。人間にとって「ふるさと」とはこんなにも大切で輝いている存在なのだと強く感じたものでした。そこで、10年目に思うこととして「ふるさと」について書いてみました。

この10年間に私自身の生活の変化もあり、「ふるさと」について以前にはなかった感情が湧いてくるようになったのです。その「重み」を感じるのです。ふるさととは自分が生まれ育った土地や家や、何か特別に思い入れのある場所なのでしょう。普段は忘れていても何かの折にふっと意識にのぼってくるところです。「セピア色の……」などという表現もありますが、思い出すふるさとはちょっと古ぼけた色彩であったりもします。
しかし思っている時は、自分はそこに戻っていて、懐かしい景色の中にいます。胸がちょっと絞られるような感覚。

そのふるさとがあの災害とその後に起きた事故などで、無残に破壊され、姿を消し、あるいは復興の名のもとに以前とは全く様子が変わってしまったところもあります。そして戻れなくなった人々、ふるさとを捨てざるを得なくなった人々らの「ふるさと」を想う切実な気持ちに共感できるのです。海とともに暮らしていた人が、海のそばにいるのに海が見えない生活になる。戻ってもいいと言われても障害の多さにそれをあきらめざるを得ない人。

「ふるさと」ってなんだろう? と改めて考えてみました。それは心の中の帰るべきところ、そこが自分の原点と思えるところだろう。あの仮設住宅で語ってくれた人々のように「ふるさと」にはありふれた日常があったし、そこに自分も家族も友人もみなそろって居た。いまさらながらなんでもない生活は今、「宝物」のように小箱に入っている。だからいつでもそっと開けて覗くことができるのです。現実の場所がなくなっても心の中の小箱は永遠に残っています。心の中の帰るべき場所はそこにあり、そして思い出すたびにそれは新鮮です。

私自身は震災では何の被害も受けませんでした。身内もみな無事でした。しかし、以前の職場の同僚が2人亡くなっています。まだ30代に入ったばかりの女性と50代半ばの男性です。それらの人も今ではふるさとの「小箱」を開けると笑顔でいるのです。

自己紹介や手記の背景

10年という節目に何かをまとめておきたいと思った。あの大きな被害の中で「何かをしなければ」という気持ちが湧きおこり、震災から3日目から看護師の経験を生かして、住んでいた地域の避難所でボランティア活動をした。その後、市の開設した避難所でのボランティアに続き、仕事としても支援活動に従事したが、その中で出会った多くの人々と聞き取ったそれらの人の人生の片鱗が忘れがたい。
支援する立場でありながら、それらの人々から多くのことを学んだ。そしてふるさとの存在が意外にも人の中で心棒になっていることに気づいた。

ふるさとはいつまでも輝いている

太田眞樹子

自己紹介や手記の背景

10年という節目に何かをまとめておきたいと思った。あの大きな被害の中で「何かをしなければ」という気持ちが湧きおこり、震災から3日目から看護師の経験を生かして、住んでいた地域の避難所でボランティア活動をした。その後、市の開設した避難所でのボランティアに続き、仕事としても支援活動に従事したが、その中で出会った多くの人々と聞き取ったそれらの人の人生の片鱗が忘れがたい。
支援する立場でありながら、それらの人々から多くのことを学んだ。そしてふるさとの存在が意外にも人の中で心棒になっていることに気づいた。

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