コンノユウキ
こりゃあ寝そべっていられると思えるくらい、当時の私には大きくて、人気のない道でした。最後に通ったのは、かれこれ10年前でしょうか。子供が想像する「田舎」に相応しいこの場所によく、夏休み遊びに行ってました。牛舎のにおい、薪の燃える音、冷たい星空。当時の記憶のまま、今もたまに思い出します。他にもいろんな記憶があると思いますが、私の知っているこの場所の記憶は、このときまでです。
今年の秋、ある夢を見ました。私と母と妹で、家に帰ろうにも帰れない夢です。そこには警察と思われる人が数人いて、私たちの帰り道を通行止めにしていました。別の道から行こうとしても、違う道から帰ろうとしても、家までの道が塞がれていて、到底帰れない状況でした。「なんで家に帰れないの!」と母が声を上げたその時、獣とも人間ともいえない叫び声が、どこからか聞こえてきました。その叫び声におどろいたのか、私は目を覚ましました。
夢を見た前日、私はGoogleマップを遅くまで見ていました。父の実家を探していました。拡大と縮小を繰り返しながら、感覚で見つけようとしてました。住所をいちいち聞くのは、躊躇われました。というのも、数字や地名ではなく、もっと感覚的なものとして、その場所は記憶に刻まれていたからです。父の運転する車に乗って、海を眺めて、狭くて急カーブの多い山道を抜けて、寝そべれるくらい大きくて人気のない国道を曲がって、父の実家によく行ってました。
ここかな、いや、ここかな、と覚えていることを頼りに、カーソルを動かしました。蛍を見たのはここかな、親戚の家はここっぽいけど、違うかもな、と、自然とひとり言が増えます。どれくらい経ったでしょうか。大きな道路が見つかりました。撮影日は比較的最近のものでした。ですが、あまり昔と変わらない気がします。過去ログも見れました。1年前、3年前、もっと前、あまり変わりませんでした。あの頃のままです。
見た限り、道路はそのままでした。周りの雰囲気も変わってないように見えます。でも変わったことがあります。家まで続く小径は、遮られていました。別の道は、カラーコーンとの横に「この先帰還困難区域につき通行止め」という看板が立てかけられてました。その道の先の画像は、Googleマップにもありません。矢印に合わせて、進行方向をクリックすることもできません。結局、画面越しにでも、家の前まで行くことは不可能でした。
そこに住んでいた祖父母と伯父は、一見なにも変わっていない中、避難を迫られ、10年経とうとしている今まで、家をそのままにしています。道路も、家もなにも変わっていません。というより、行けない以上、なにも分かりません。私の記憶も昔と変わりません。ただ、もっと違う思い出ができただろうと思うと、その変わらなさに、心が詰まりそうになるのです。私が心に蓋をするよりも先に、看板で足止めされたような気もして。
韓国と日本で美術批評の活動をしています。震災当時は高校生で、韓国で暮らしていました。父の実家が帰還困難区域になってしまい、父や祖母と話しながら感じたことを、反芻するように書きました。
コンノユウキ
韓国と日本で美術批評の活動をしています。震災当時は高校生で、韓国で暮らしていました。父の実家が帰還困難区域になってしまい、父や祖母と話しながら感じたことを、反芻するように書きました。
朗読
朗読:藤家矢麻刀
選考委員のコメント
「家はそのまま、そこにあったけれど、中に入ると、イノシシやタヌキや、ネズミの糞がいっぱい。手のつけようもなく荒れ果てていて……家族は肩を抱き合って泣きました」
10年前の3月12日に家を出て、そのまま今も住居が決まらない福島県双葉町の友からの手紙です。
「押し寄せた津波に跡形もなく家をもっていかれて……」という言葉も悲痛ならば、それとは質の違う、そして理解されにくい「そのまま、そこにある」という現状のむごさ。
その「変わらなさに、心が詰まりそうになるのです」。そして「私が心に蓋をするよりも先に、看板で足止めされたような気がして……」という筆者の言葉が胸に響く(小野和子)。