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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

悲しみの共有をはばむ見えない溝

藤田敏則

2011.3.11の未曽有と呼ばれる震災発生後1年が経った頃の話です。被災地のいたる処に積み上げられ、復興を妨げる瓦礫を前に国の主導で岩手・宮城の震災瓦礫広域処理が進められようとしていました。「被災地の復興を第一に考えれば受け入れるのが当然である」と、いち早く受け入れを表明する自治体もありました。しかしその後、受け入れを前向きに検討しようとする自治体に対して、原発に依存する国のエネルギー政策を批判してきた人達の一部から反対の声が上がったのです。彼らの言い分は福島以外であれ、微量の放射能に汚染されている可能性のある瓦礫を域外へ持ち出せば、汚染拡大につながる恐れがあり、絶対に許されないと言うのです。受け入れを決めた某市が行う住民説明会の当日、参加した住民は少なく、会場の内外に詰めかけた反対グループが受け入れ阻止のプラカードと怒声の飛び交う様子がニュースで報道されました。それは東北の避難者の耳目にも当然伝わります。僕は彼らの胸中を想うと居た堪れない気持ちになったのです。

この時のニュースを見る限り、瓦礫を受け入れた先の一般市民が震災瓦礫を汚物呼ばわりして頑なに拒んでいるように受け取れます。実際には受け入れ地区の住民はあまり画面に写らず、域外から集まった活動家達の声と様子が大きく報じられたのです。僕自身もこれまで一貫して脱原発の立場でした。しかし親しい友人の1人(反原発運動家)の主張する広域処理反対の言説にどうしても同調できなかったのです。瓦礫の転送先をめぐって不毛に争う人達の眼には瓦礫(穢れ?)の山を抱え日々生活する被災者への視点が全く抜け落ちている事が寂しくもあり、被災の内側にいる者だけにしか分かり合えない隔たりの深さに絶望すら感じたのです。

2012年の夏が終わる頃だったと思います。この問題を唯一取り上げたテレビドラマがありました。ドラマは被災地の災害FMでバイト中の多感な女子高校生某ちゃんのブログ(実話)を元に作られています。瓦礫の処理を巡る報道を受けて書き綴ったブログが大炎上した事に傷つき、自暴自棄に陥った某ちゃんがラジオリスナー(県外に出た被災者)との交流を通して自分を取り戻していくストーリーです。僕は某ちゃんが語るブログの内容に引き込まれドラマに釘付けになりました。以後DVDで繰り返し見ることになります。劇中、災害FMに勤める朋輩2人が会話を交わす場面があり、年長の1人が別の女子高生の問に対して応えた言葉「ここの人達みんな千粒以上の涙を流したでしょう。あなただって!」「某ちゃんはね~瓦礫を受けいれて欲しかったわけじゃないのよ。1粒か2粒でいいから誰かに涙を引き受けて欲しかっただけなのよ」 2012年の暮れ近くまで再生を重ねては袖を濡らしたDVDは僕の痛みをじんわりと溶かしてくれたのです。

自己紹介や手記の背景

1995.1.17の阪神淡路大震災の折に被災地の内側(兵庫県西宮市)で感じていたのは内と外を隔てる地図には描けない溝の存在でした。その後、2011.3.11の東日本大震災で娘を亡くし、被災地の外側(兵庫県)に住む遺族となった事で内と外という括りでは収まらない様々な立場故に生じる溝に直面することになりました。今回テーマにした瓦礫の広域処理で生じた溝も東日本大震災の後、幾度となく被災地に通い続け、多くの人と交わる機会を得た結果感じることが出来ました。3年余り前に香川県に移住して以来、東北通いも少なくなりましたが、親しく縁を頂いた方達との交流は今も続いています。

悲しみの共有をはばむ見えない溝

藤田敏則

自己紹介や手記の背景

1995.1.17の阪神淡路大震災の折に被災地の内側(兵庫県西宮市)で感じていたのは内と外を隔てる地図には描けない溝の存在でした。その後、2011.3.11の東日本大震災で娘を亡くし、被災地の外側(兵庫県)に住む遺族となった事で内と外という括りでは収まらない様々な立場故に生じる溝に直面することになりました。今回テーマにした瓦礫の広域処理で生じた溝も東日本大震災の後、幾度となく被災地に通い続け、多くの人と交わる機会を得た結果感じることが出来ました。3年余り前に香川県に移住して以来、東北通いも少なくなりましたが、親しく縁を頂いた方達との交流は今も続いています。

連載東北から
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