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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

「その日」被災地にいなかった、宮城県民の私

せら

震災が起こった時、私は大阪のマンションで掃除機をかけていた。
私の実家は宮城県南部にあり、自分の人生のほとんどを仙台市と現在の実家がある町で過ごした。だから私は大阪に住んでいてもメンタリティは完全に宮城県民だった。
大地震が宮城県を襲ったことを知ったのは、地震発生から何十分か後、関東の友人からのメールで、だった。
「宮城の地震でこっちも揺れてる!」
宮城県は何年も前から、宮城県沖地震がもうすぐ来る、と言われていたので、ついにきたかという思いでテレビをつけた。
津波が押し寄せる映像がブラウン管に映し出された。大阪にいながら、リアルタイムで故郷が津波に飲まれる様子を見ることになったのだ。
私は慌てて母にメールを送った。次に弟、そして、福島県に住む末の妹にも。すぐ下の妹は当時携帯を持っていなかったので、連絡手段がなかった。
母と弟は警備の仕事をしていて、その日どこにいるかわからなかった。海の近くの現場で働いているかもしれなかった。私のすぐ下の妹は仙台で働いていて、その時間はまだ仙台にいるはず。末妹は幼児を2人抱える専業主婦。私の実家は海から約5キロのところにある。
私の親戚や友人はほとんど宮城県と岩手県に集中している。大阪で、彼らからの連絡を待つしかなかった。
正直、家族は全てなくす覚悟はした。津波の映像を見て、想像を絶することが起こっていると思ったからだ。
結論から言えば、私は非常に幸運だったのだと思う。私の家族、親類、親しい友人は全員、命ばかりか住まいも無事だった。実家まで津波は到達せず、全壊・半壊認定もされなかった。母は、死んだ父、すなわち彼女にとっての夫が私たちを守ってくれたと言う。早逝した父は都合よく神格化される形になったが、私自身も半分は父が守ってくれたのだと信じている。そして家族の中で最も臆病な私がその日大阪にいたというのも父の計らいだと思っている。
母から「無事です」のメールがあった時、私はその場に崩れ落ちて号泣した。それまで私と母の関係はそれほど良好だとはいえなかったが、そのことがあってから私の中の母の存在がいかなるものかを図らずも認識したのだった。ただし、そのことは未だに家族には伝えていないしこれからも伝えることはないだろう。今はうまくいっているのでわざわざ言う必要もないから。
今、私は結婚して関東に住んでいる。居住地が変われども、震災の日を忘れることはないし、メンタリティは相変わらず宮城県民である。大事な故郷を襲った災害を忘れるわけはない。そして、東北以外の人々、例えば関東や関西の人たちがあの日何を思ったのかを少しずつ拾い集めようと思っている。特に表立った活動をしているわけではないが、それはあの日被災地にいなかった宮城県民の私の義務だと勝手に思っている。
最後に、あの震災を生き延びた人々が、どうか今まさに世界を襲っている厄災も乗り越え、生き抜いていけますように。

自己紹介や手記の背景

私は、宮城県民のメンタリティを持ちながら、その日ほぼ被害に遭うことのない遠く離れたところにいた宮城県民です。私のこれまで役割は、被災地にいた人々(家族、友人たち、知人)の話を聞くことでした。それは、私自身も望んでいたことでもありました。
震災から10年経ち、私自身の経験を改めて振り返ることにはもしかしたら意味があるのではと思い、応募することにしました。
私は現在、歴史学を研究する大学院生です。ですから、出来事に関する記述は、あとに残れば歴史となり、後代の知識の蓄積となると考えています。私の拙いエピソードが、次世代の人々の一助になれば幸いです。

「その日」被災地にいなかった、宮城県民の私

せら

自己紹介や手記の背景

私は、宮城県民のメンタリティを持ちながら、その日ほぼ被害に遭うことのない遠く離れたところにいた宮城県民です。私のこれまで役割は、被災地にいた人々(家族、友人たち、知人)の話を聞くことでした。それは、私自身も望んでいたことでもありました。
震災から10年経ち、私自身の経験を改めて振り返ることにはもしかしたら意味があるのではと思い、応募することにしました。
私は現在、歴史学を研究する大学院生です。ですから、出来事に関する記述は、あとに残れば歴史となり、後代の知識の蓄積となると考えています。私の拙いエピソードが、次世代の人々の一助になれば幸いです。

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