Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

人生の選択

緑の真珠

高齢の両親のこれからを考え、故郷気仙沼に戻ることにした。就職先が中々決まらず諦めかけていた矢先のことである。
就職先は南三陸。
勤務日は2011年4月1日からと決まった。
南三陸町志津川。15年以上前に一度研修で訪れたことがある町。
知人が全く居ない土地への不安はあったが、このチャンスを逃したくなかった。
仕事の引継ぎやら引っ越し準備やらで目の回るような忙しさの中、3月9日、新天地への引っ越しは完了した。
これからの自分への覚悟にと殆どの家具を新品に買い替えた。冷蔵庫、テレビ、炊飯器、洗濯機、テーブル、パソコン、プリンター、食器棚。
引越し先のアパートは新品特有の満たされた匂いで溢れていた。未来を信じていた。
2011年3月11日。その日は雪の降る寒い日だった。4月からの勤務に向けて本棚の整理をのんびりと行なっていた。そんな午後だった。
ゴーという音が聞こえたような気がした直後、突然立っていられないほどの揺れに襲われた。一瞬、何が起きているのか全く理解出来なかった。
揺れている。揺れ続けている。
急いで外に飛び出した。避難を促す放送が聞こえた。
避難。避難。避難。
一体どこへ私は行けばいいんだろう。方向も方角も全く分からなかった。
「何してるんですか、避難しないと。津波がくるんですよ」
2階から駆け降りてきた男性に声を掛けられた。
「避難場所がわかりません。どこに行けばいいんでしょうか」
緊急時に的外れな質問だったはずである。一瞬怪訝そうな顔をしたものの、男性は即座に答えた。
「時間がありません。渋滞も始まるでしょう。直ぐに私の車で行きましょう。急いで」
促されるまま車に乗った。目的地は志津川高校。車中では
「あっパソコン忘れました。あなたもでしょう。取りに戻りたいですけど私たちは2階だから、後で取りにきても良いですよね」
そんな会話を交わした。
津波が来ても2階なら安全だろうとお互いが思っていた。
到着した時間は覚えていないのだが、私は大分早く避難できたのではと思う。
というのも到着後ラジオを聴きながら住民の方々と情報共有する時間があったからである。暫くすると遠くに土煙が上がった。なんで土煙と不思議な気持ちで眺めていると海岸近くの建物が、グチャグチャに破壊されながら山側に移動してきた。押し流された建物の列の隙間からは黒くのっぺりとした液体が静かにこちらに向かってきている。地面がどんどん黒く塗りつぶされていった。
現実なのか夢なのか、今目の前にある光景を確かに私の目は見ているはずなのに脳が理解を拒否していた。
今回震災10年目に一生懸命歩んできた自分を書きたいと思って机に向かった。
しかし、書き始めてみると忘れていたはずの記憶がまるで映画のように思い起こされてきた。私の心の奥底にはきっと未だにあの時を忘れてはいけないという思いが残っているのだろう。震災10年目の今年である。

自己紹介や手記の背景

ケアマネジャーをしています。両親と共に住むことを選択し、横浜から地元気仙沼へ帰ることにしました。横浜での生活は楽しい事ばかり。仕事も順調にキャリアを積んでいたのですが……。
引っ越しが全て完了したのは2011年3月9日。生きていくときに右か左どちらかに進まなければいけない時があります。その選択はその後大きく自分の人生を変えてしまうということを実感として学んだのは震災でした。

人生の選択

緑の真珠

自己紹介や手記の背景

ケアマネジャーをしています。両親と共に住むことを選択し、横浜から地元気仙沼へ帰ることにしました。横浜での生活は楽しい事ばかり。仕事も順調にキャリアを積んでいたのですが……。
引っ越しが全て完了したのは2011年3月9日。生きていくときに右か左どちらかに進まなければいけない時があります。その選択はその後大きく自分の人生を変えてしまうということを実感として学んだのは震災でした。

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