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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

福島の自動車学校

森田洋介

当時19歳だった私は、大学の春休みを満喫していた。地元の千葉から免許合宿のために福島の自動車学校に来ており、旅行気分だった。あの地震が起きるまでは。

講習も残り数日となったあの日、自動車学校の食堂にいた。14時46分。ここからの数分間はよく覚えている。揺れが起きてからしばらくは、テーブルの下に潜っていた。
「やけに長い地震だな……」
揺れはおさまるどころか、激しさを増すばかり。軋む音がするたびに、教習生の悲鳴が聞こえる。
ガチャーン!!と、窓ガラスの割れる大きな音。私たちは一斉に校舎の外へ走り出す。まるでパニック映画のワンシーンのようだ。
開いた口が塞がらないとはこのことだろう。まるでメトロノームのように左右に揺れる校舎を見つめていた。空からは、天変地異を知らせるように吹雪が襲ってきた。膝から崩れ落ちる人、動画撮影をする人、十人十色の反応がそこにはあった。

旅行気分だった免許合宿は、あの地震を境に一変した。夜は、いつ大地震がきても避難できるような対策をした。友人との相部屋に宿泊していた私は、水を数本入れたリュックを枕元に置いて、TVをつけたまま布団に入った。緊急地震速報の音が鳴るたびに、リュックを背負って避難した。それを何度も繰り返した。あの地震がフラッシュバックし、まともに寝られなかった。
疲労困憊だったのだろう。翌日からの数日間をあまり覚えていない。ただ、原発事故の映像を宿舎のTVで見たときの衝撃は鮮明に覚えている。

残り数日の講習を残したまま、帰宅命令に従って地元に帰った私には、2つの選択肢があった。地元の自動車学校に入り直すか、5月に福島の自動車学校に戻るか。周囲の人には、地元を勧められた。
「福島には行かないほうがいい」
そんな声も聞こえた。
しかし、半月ほど過ごした場所だ。思い入れがある。周囲の人がどう思うかではなく、自分がどうしたいかを考えた。止まってしまった時計の針を動かしたいと思った。

そして、5月の大型連休に福島へ戻った私を待っていたのは数日間の孤独だった。教習生は私だけ。卒業まで他に誰もいなかった。これが偶然なのか、風評被害の影響なのか、わからない。
そのなかでも、指導員・スタッフの方々、私1人にもかかわらず食事を作ってくれた食堂の方々には感謝しきれない。

最後に明るい話を紹介したい。様々な大学に自動車学校の説明員として訪問している指導員と、講習の合間に話をした。翌月、その指導員から着信があった。
「今、君の大学に来ているよ」
自動車学校の案内ブースへ足を運ぶと、学生に対して熱心に説明をする指導員の姿があった。私は、たった1人の教習生だった5月の記憶を思い浮かべていた。案内ブースには様々な地域の自動車学校がある。そのなかで、福島の自動車学校の案内を選んで聞いている学生がいることを嬉しく思った。

今でも、福島や震災という単語を見ると一連の出来事が蘇る。切なくも大事な思い出だ。

自己紹介や手記の背景

東日本大震災を福島の自動車免許合宿中に経験。私にとっては自分を成長させてくれた出来事だと前向きにとらえている。そして、この出来事を多くの人に伝えられる場を探していた。さすがに当時よりは文章表現力も高まっていると思い、震災から10年目の今、執筆を決意。記憶があいまいな箇所も含めてありのままを書いた。この先、指導員の顔や、会話の内容を忘れてしまうことはあっても、当時感じた「やるせなさ」や「人の温かさ」を忘れることはないと思う。

福島の自動車学校

森田洋介

自己紹介や手記の背景

東日本大震災を福島の自動車免許合宿中に経験。私にとっては自分を成長させてくれた出来事だと前向きにとらえている。そして、この出来事を多くの人に伝えられる場を探していた。さすがに当時よりは文章表現力も高まっていると思い、震災から10年目の今、執筆を決意。記憶があいまいな箇所も含めてありのままを書いた。この先、指導員の顔や、会話の内容を忘れてしまうことはあっても、当時感じた「やるせなさ」や「人の温かさ」を忘れることはないと思う。

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