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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

先生とハムスター

ハム太郎

2011年3月11日。14時46分。

当時小学6年生だった私は、卒業式を2週間後に控えていた。
その日も5時間目は卒業式の予行練習で、14時46分はいつもみたいに帰りの学活をしていた。

「地震だ」

隣の席の友達が地震に気づいた次の瞬間、先生は「机の下に隠れて!」と大きな声をあげた。
小学生の小さい体は、必死に机の足にしがみ付いても簡単に机の外に放り出されそうで、背の高い先生が必死に壁を伝って移動しながら教室の窓を開けていた。先生でさえ、どこかに掴まらないと立っていられない揺れだった。
みんなが机の上に広げていたランドセルや教科書がどんどん床に落ちていく。
クラスのみんなで飼っていたハムスターの小屋は少し高い場所にあって、それを先生が一生懸命おさえている。同じ光景を見たことがある。

「この地域は地盤が強いんだよね、だから原発が2つも建ってる。そんなに大きな地震は来ないよ。」

3月11日の1週間前、同じく教室で地震があったときに先生は同じように窓を開けて、ハムスターの小屋を押さえながらそう言っていた。みんなに聞こえるか聞こえないかの小さな声で。窓際の席だった私には、ちゃんと聞こえていた。だから、信じられなかった。

それからしばらくして、先生が安全だと信じ込んでいた場所にあった原発はあっけなく爆発した。私もクラスのみんなも先生も、みんなが避難をして地元を離れた。

2011年3月23日。本当なら卒業式だった日に先生から電話がかかってきた。
避難所の毛布にくるまりながら受けたその電話の向こうで、先生は

「卒業おめでとう。卒業式できなくてごめんな。」

そう何度も繰り返した。
私は、何もいえずに泣いた。

「先生、ありがとうございました。本当に。」

何もできないんだと思った、先生にも私にも。
誰も悪くないんだと思った、先生も私も大人も。

しばらく経って、卒業をしないまま中学生になった私は誰も生徒のいない小学校に荷物を取りに行った。
先生がいた。あのとき先生が必死に守ったハムスターは、みんなが避難をしたときに一緒に避難ができなかったからもうそこにはいなくて、空っぽになった小屋だけが残っていた。
ハムスターは死んだんだ。

先生が必死に守った小屋の中は、空っぽだった。
ちょっと冗談みたいに、悲しそうな顔で先生は言っていた。

「この小屋、ここにあってもな、俺も異動になったんだ。家には帰れない。持って帰るか?」
「いらないですよ。捨てましょうよ。」

あれから10年が経った。
私はもうハムスターの名前を覚えていないし、あのとき隣の席で一番に地震に気づいた友達が誰だったのかも覚えていない。

でも今でも鮮明に覚えていて、今でも思うことがある。

先生は何も悪くない。

自己紹介や手記の背景

震災当時小学6年生だった私は、地元の福島県南相馬市で被災しました。
手記に出てくる先生は、小学校5年と6年の2年間担任の先生だった男の先生です。
先生とはずっと仲が悪くて怒られた記憶しかありません。けど先生は震災の後もこまめに連絡をくれました。
高校が決まったとき、大学が決まった時もこの先生に報告をしました。

10年が経ち私は大学を休学していて、先生は中学校の数学の教師になったと風の噂で聞きました。

あの時先生が、卒業式ができずに謝ったこともハムスターが死んだこともこの10年間ずっと心に引っかかって居ました。この節目に、先生への思いを丁寧に言葉にしたくて書きました。

先生とハムスター

ハム太郎

自己紹介や手記の背景

震災当時小学6年生だった私は、地元の福島県南相馬市で被災しました。
手記に出てくる先生は、小学校5年と6年の2年間担任の先生だった男の先生です。
先生とはずっと仲が悪くて怒られた記憶しかありません。けど先生は震災の後もこまめに連絡をくれました。
高校が決まったとき、大学が決まった時もこの先生に報告をしました。

10年が経ち私は大学を休学していて、先生は中学校の数学の教師になったと風の噂で聞きました。

あの時先生が、卒業式ができずに謝ったこともハムスターが死んだこともこの10年間ずっと心に引っかかって居ました。この節目に、先生への思いを丁寧に言葉にしたくて書きました。

連載東北から
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