Art Support Tohoku-Tokyo 2011→2021

特集10年目のわたしたち

10年目の手記

自身の被災、3.11からの数日間

しもやまだまこと

・地震発生当時は自宅にいた。
・午後2時46分。テレビから「ジャンジャン!」と緊急地震速報。と思ったら、強い揺れが始まった。
・居間の物という物がひっくり返る。それでも揺れがおさまらない。とっさに何かを押さえたが、どうでもいいものだったと思う。それくらい何もできなかった。
・5分近く揺れた。その後も余震が続いた。
・外へ出た。何をしていいか分からず部屋に戻った。テレビで地震情報を見た。何度も繰り返した。とにかく何をしていいか分からない。
・テレビを見続けた。三陸の港町に大津波が押し寄せる映像が映し出された。ライブだ。今起きている現実。でも現実として理解できない。
・近くの火力発電所の煙突から、ものすごい勢いで黒煙が噴き出した。何かが起こったと思った。
・自宅前をうろうろしていると、向こう側から水がじんわりやってきた。じんわりじんわりと増えてきた。それが津波と知ったのは夕方になってからだった。
・ようやく逃げなくちゃと思った。避難所の学校には息子がいる。車は近くに停め、歩いて向かった。
・急に風が強くなり、めったに降らない雪も降りだした。朝の予報で、午後から雪が降ると聞いてはいたが、雪が降り、強風が吹くと、地震と相まってこの世の終わりかと思った。
・5分くらいで学校に着いた。子どもたちと避難者で体育館はすでにいっぱいだった。息子がいた。ほっとした。
・体育館は外壁に亀裂が入り、危険な状態だった。
・校長先生が「体育館は危険なので、校舎に避難してください」と言った。皆、教室に避難した。その日一晩、学校にいた。
・テレビでは、原発が危険な状態だと再三放送していた。
・明け方、家に戻ると、「仕事に来れる人は来るように」とのこと。
・ズタズタの道路をかいくぐり、何とか職場に着いた。
・津波でやられた人たちが避難しているゴルフ場に行ってくれ、と言われ、何も分からないまま向かった。途中、津波が到達した地点も見た。家が流され、道路に残された屋根の部分が道路を塞いでいるという光景だった。ようやくクラブハウスにたどり着いた。避難所ではないが、高台のため多くの人が避難していた。
・何をしていいか分からない。避難者たちは、自ら避難者名簿を作った。
・低地にあったかまぼこ工場も津波被災を受けた。工場の方が、被害から免れたかまぼこを、もう売り物にならないから食べてくれ。と置いて行った。何も備蓄のない所にこの差し入れは大変ありがたかった。
・携帯はつながらない。連絡を取りたい人たちは公衆電話に殺到した。
・夕方、状況を報告するため戻った。帰宅後、深夜にまたクラブハウスに戻った。
・13日に、ゴルフ場関係者から、避難所を移動してもらえないか、と依頼された。そのため、避難先の調整を行い、避難者を誘導した。ゴルフ場の避難所は3日間で閉鎖になった。避難者は次の避難所へ移った。
・私も、別の避難所へ移った。

自己紹介や手記の背景

いわき市役所で働く地方公務員で、現在はいわきアリオスに勤務。
前回応募し、「大震災から1か月後の「福島県浜通り地震」は日本で初めての『正断層』が引き起こした」を掲載していただきました。
今回、自身が3.11で被災した時のことも残しておきたいと思い、応募しました。

自身の被災、3.11からの数日間

しもやまだまこと

自己紹介や手記の背景

いわき市役所で働く地方公務員で、現在はいわきアリオスに勤務。
前回応募し、「大震災から1か月後の「福島県浜通り地震」は日本で初めての『正断層』が引き起こした」を掲載していただきました。
今回、自身が3.11で被災した時のことも残しておきたいと思い、応募しました。

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