海野輝雄
あの日、私の勤めていた学校は卒業式で、在校生達は昼前に下校し、卒業生達も保護者とともに2時頃までには帰宅していた。学校から離れたところにあった自家用車を校内に移動させようと屋外に出たときに地震が始まった。大きな地響きと同時に地面が激しく揺れて、3階建ての校舎の屋上に着いていた飾りのようなスペイン瓦が砕けて落ちていく様子が見えた。校舎脇に駐車した車が跳ねるように大きく揺れて、いつもの地震とは違うのをはっきりと感じた。振動が少し収まったあたりで職員が大勢飛び出してきて、正門前の少し広いところに集まった。山の斜面に造られた特殊な学校なので、校庭が反対側の下の方にあるために校庭に逃げることは出来なかった。
大きな振動は断続的に起こり、校舎が倒れてきそうな恐怖で悲鳴が湧き起こった。そのときに「子どもが!」という声が聞こえた。保育園や小学校に子どもが行っているお母さん達の声だった。必死に携帯電話をかけてみても繋がらず、すすり泣く声に変わっていった。
そのときに私の脳裏に浮かんだのは、家でテレビを見て暮らしている母親の姿だった。高齢で足が悪く、ほとんど外へ出ない母は、一日の大半を茶の間で過ごしていた。茶の間の上の2階には、私の本が大量に置いてある部屋があり、本の山を見て母は、「こんなに本があっては、いつ床が抜けても不思議はないな。」と呆れていた。まさかそんなことは、と思っていたが、この異常な地震では、あり得ることのように思えてきた。築40年を超える古い木造家屋が持ちこたえられるのか心配になるほどの地震だった。茶の間の天井が抜けて2階の本が雪崩のように落ちていき、母親を押しつぶしているイメージがしきりに思い浮かんだ。電話は何度かけても繫がらない。
早めに職場を出た私は、急いで帰宅したかったが、交差点の信号が全て消えていたため交差点を抜けるのが大変で、お互いに手で合図をしながら恐る恐る車を進める状態になっていた。当然道路はどこも渋滞で、40分で帰宅できる道が2時間近くかかり、自宅へ着いた頃には薄暗くなり始めていた。
開いたままの玄関は、倒れた靴箱や崩れ落ちた壁材等で踏み込めない状態だった。大きな声で母を呼んだが、返事は後ろの庭側から聞こえた。家の2軒隣は滑り台があるだけの小さな公園で、そこに近所の人達といたのだそうだ。私の家は、街中の新興住宅街にあり、近所づきあいも挨拶程度で、さほど親しくしている訳ではないのだが、近所の奥さん達が、「おばあちゃん、家の中にいては危ないから公園に行こう」と声をかけて連れ出してくれたらしい。近所のありがたみが胸に染みた。
「天井は抜けなかった?」と聞くと、大丈夫だったと笑う顔を見て少しほっとした。余震に怯えながら車の中で一夜を明かし、翌日ご近所に御礼を言って回った。その頃から、ご近所との関わりも深くなっていったような気がする。
※ 本手記は、水戸芸術館現代美術ギャラリー「3.11とアーティスト:10年目の想像」展を通してご応募いただいたものです。
大震災を体験してみると、自分自身の身の安全と同時に不安に駆られるのは家族の安否だということがわかります。突然に大切な人の安否が不明になる恐怖に襲われる、というのが震災の姿の一つなのでしょう。震災当日、私が勤めていた知的障害の子ども達の学校は、卒業式だったことで児童生徒たちは早めに下校し、揺れが来た頃には親子でいることが出来ました。不幸中の幸いだったと後になって語り合ったことを思い出します。
海野輝雄
大震災を体験してみると、自分自身の身の安全と同時に不安に駆られるのは家族の安否だということがわかります。突然に大切な人の安否が不明になる恐怖に襲われる、というのが震災の姿の一つなのでしょう。震災当日、私が勤めていた知的障害の子ども達の学校は、卒業式だったことで児童生徒たちは早めに下校し、揺れが来た頃には親子でいることが出来ました。不幸中の幸いだったと後になって語り合ったことを思い出します。