宮地尚子さんの『環状島=トラウマの地政学』や『震災トラウマと復興ストレス』は、出来事と向き合う際の位置と距離について考え抜かれた著作です。災禍のあとに、見えないものやきこえないものに囲まれて、立ち尽くしてしまいそうになるなかで、それでも全体像に触れるための手がかりが示されています。宮地さんは、いま何を考えているのでしょうか?
2020年9月8日 研究室に行く道
東日本大震災から10年目を迎える。
東日本大震災について直接書くことを、この文章ではあえて避けてみたい。それは、書けないことが多すぎるからであり、また直接書かないことによって、ひょっとすると、東日本大震災の犠牲者や被災者に、より近づくことができるかもしれない、と思うからである。
そのかわりに、3つ(正確に言えば4つ)のテキストを紹介することにする。1つ目は、2004年のスマトラ沖地震の津波に巻き込まれ、両親、夫、幼い息子2人を亡くし、自分だけ生き残った女性、ソナーリ・デラニヤガラの手記である。2つ目は、1944年の東南海地震でやはり津波に巻き込まれ、生き延びた海女、梅谷みきの体験談である。そして3つ目は、1995年の阪神・淡路大震災で被災した女性「Jさん」/結城理恵についてのテキストである。
その3つをつなげて何が見えてくるのか、私自身はっきりとはまだわからないでいる。教訓めいたことを言いたいわけではない。オチが何かあるわけでもない。私が言いたいこと以上の何かがあらわれてしまって、誰かを傷つけてしまいそうな不安がないわけでもない。
でも、聞いて。彼はあなたの様子が、いままで見たことのない奇妙な光景だったと言ったの。あなたは黒い泥で覆われていた。ちょっと聞いて、もっと奇妙な話になるから。彼はあなたが回転していたと言うの。くるくる、くるくる。そう、回転よ。子供が目を回して倒れたいときにやるみたいに。彼のオフィスで話していたんだけど、彼、椅子から立ち上がってあなたがやっていたことをやって見せてくれた。あの泥の中で回転していたのよ。彼はとてもショックを受けたと言っていた。あなたが止まらないから。
(ソナーリ・デラニヤガラ著、佐藤澄子訳『波』新潮社、2019年、P.124)
ソナーリ・デラニヤガラは、イギリスから故郷のスリランカに夫と幼い息子2人とともに帰省し、両親を連れて、海岸のリゾート地でクリスマス休暇を過ごしていた。そこに津波が襲った。ホテルから逃げ出そうとしたけれど、津波は簡単に追いつき、家族をバラバラにして飲み込んでいった。彼女は、ホテルからそんなに遠くない潟の近くで、地元の人たちによって見つけられた。津波は何キロメートルも内陸に入り、向きを変えて、潟を越えて、海に戻ったという。だから彼女はずっと内陸まで流され、それからまた外に向かって、運ばれたことになる。そして大海原に流されてしまうほんの数秒前に、木に掴まり、奇跡的に生き延びた。
彼女を助けてくれた地元の人から直接話を聞いた彼女の友人は言う。
「その人、あなたが回転していたことをずっと考えているの。トランス状態に見えたらしいの。もしかしたら水の中で回転していて、それが止まらなくなったのかしら? 彼にそれは確かかと聞いたの。そうだ、そうだ、と彼は言い続けた。キャラキ、キャラキ、ヒティヤ(くるくる、くるくる、まわっていた)。想像してみてよ」(P.125)
『波』は、ソナーリが家族を喪ってから8年後に書きあげられた手記である。津波の様子、直後のこと、そしてそれからの長い苦しみの日々。「死別の悲しみ」と一言でいうには、あまりにも痛々しい。彼女は繰り返し命を絶とうとし、常に親族のだれかが見張っていなければならなかった。彼女にあるのは生き延びたことの罪悪感ではない。それもなくはないが、自分だけ生の方に置き去りにされたことの怒り、悲しみ、寂しさの方が強い。手記には、単にきれいごとだけではなく、もがき苦しみ、他者に怒りをぶつけたりする様子などが、率直に記されている。
私は『波』を読んでから、彼女を助けた人と同じように、ソナーリが回転していたことをずっと考えている。頭の中で、泥海の真っ只中を彼女が回転し続けているのが見える。それは実際の状況とは恐ろしくかけ離れているに違いないが、彼女がくるくる、くるくる、まわり続けている。
津波に流されている間、彼女の体は水流とともに回転し続け、平衡感覚をつかさどる三半規管の中の水も回転し続けたのだろう。津波から解き放たれても、三半規管の中の水は回転し続け、それに引きずられて体も回転し続けたのだろう。船酔いをすると、陸に上がってもしばらく地面が揺れているような感じがするが、そんな時も周りからはその人がゆらゆらしているように見えるかもしれない。医学的にいえば、おそらくそういうことなのだろうと思うが、きちんと調べたわけではない。同じような経験をした人がいるのかどうかも知らない。科学的なジャーナルを読み漁れば見つかるのかもしれないが、それをする気力が私にはない。いや気力なのか。むしろ、したくないと思っているのではないか。医学的に解明してすっきりしたいのではなく、ただ、くるくる、くるくる、まわる、そういうことがあるのだ、という事実に衝撃を受けたまま、その状態にとどまっていたいのではないか。
彼女の失くしたものは戻ってこない。住む国を変え、交友関係を変え、セラピーを受け、文章にして自分の経験をなんとか消化し(できるはずがないが)、専門的な仕事も続けてきた彼女。それでも、彼女自身、今も、くるくる、くるくる、まわっているのではないか。それが、自分だけ生の方に置き去りにされるということではないか。まるで遺棄された子どものように。彼女の「喪失」とはそういうことではないか。そんなふうに思うのだ。
地震からしばらくして、津波のため避難しようと家の窓を閉めていると、夫の父から「(津波で流されにくいように)窓は全部開けておけ」と言われた。閉めかけていた窓をあけようとしたその時、ゴーッというものすごい音とともに水が流れ込んできた。そして流されるたたみや長持ちに背中を押されるように窓からとなりの家の中へと押し流されてしまった。あっという間に水が天井まで流れこみ、部屋の中に閉じ込められてしまった。もう息もできない。目や鼻や耳、そして口の中には泥塩水がつまりとにかく苦しかった。
それでも「志摩の海女さんがこんなところで死んでたまるか」と、かべや柱を手でさぐりながら必死で脱出しようとした。もがきながら苦しかった家のなかからやっと脱出した瞬間、息とともに泥塩水をゴクッと飲み込んで気を失ってしまった。次に気がついたのは、近くで助かり浮いていた父親にさおで叩かれた時だった。周りを見ると一面が泥沼のようだった。「どこでもいいからつかまれっ」と言う父親の声が聞こえた。つかまったのは自分の家の屋根だった。どろどろですべる屋根がわらの上に必死で登った。
(南島町教育振興会資料センター部編『忘れない! あの日の大津波 東南海地震体験記』2000年、木村玲欧『戦争に隠された「震度7」 1944東南海地震・1945三河地震』吉川弘文館、2014年、P.15より転載)
私たちは、30年以内に70〜80%の確率で大地震にみまわれるという予言/予測の中で日々を生きている(*1)。それを確率と言っていいのか、予測と言っていいのかさえわからないまま。けれども確実に私たちの意識の深いところに、その予言は鳴り響いている。
今もっともおそれられているのは南海トラフ地震だろう(もしくは首都直下地震か)。多くの市町村において、南海トラフ地震がおきた想定で防災対策が練られ、防潮堤の建設や避難場所の確保などがおこなわれている。
その南海トラフ地震にきわめて近い地震が1944年(12月7日東南海地震)と1945年(1月13日三河地震)に起きていたということを、私は最近初めて知った。私自身の無知の故ではあるが、地震の実態そのものが戦時下の日本で隠されていたということも大きいだろう。たまたまつけっぱなしになっていたテレビで、「歴史秘話ヒストリア『隠された震災 昭和東南海地震』」(2020年3月11日放送)を見た。そこで知った内容は、私にとっては衝撃的だった。地震の被害が甚大だったこと、戦意の低下を防ぐため、報道が妨げられ、記録の多くも軍部によって消滅させられたこと。強い地震が起きたことは欧米でも計測され、報道もされていたこと。軍事工場があったため、震災の直後に空襲にやられたこと。戦争中だからしかたがないのかもしれないが、災害で弱ったところに攻撃をするというのは、あまりにむごい。大規模な災害が起きたときに国際的な支援がおこなわれる現在の状況が、夢物語のようにさえ思える。
ただ、その番組は、3月11日とはいえゴールデンタイムに放映されたわけではなく、また特に話題になったわけでもなかった。周囲の人たちに聞いてみたが、地震そのものについて知っている人も非常に少なかった。私が無知だっただけではないようだ。
どうしても気になって、文献を探してみた。探してみると資料はたくさんある。その中に、『戦争に隠された「震度7」』があった。そこには、海女をしていた梅谷みき(当時22歳/度会郡吉津村神前浦)の体験談が引用されていた。それを読んだ時、感じたのは、体験談がもつ伝達力の強さだった。地震や津波の記録はたくさん残されている。詳細な数値やグラフや地図も、もちろん有用ではある(それらの震度や被災者数、犠牲者数などの数字がどこまで信頼できるものなのかは、戦時下であったため、留保が必要であるが)。けれども、そこに残されている証言は肉声に近い、鮮烈なものだった。
ところで、著者の木村玲欧は、東南海地震の津波体験談を、「津波からの距離」と「生命への危険度」の2つの要素で整理し、1)津波との近接・接触なし、2)津波に追われる、3)津波に浸る、4)津波に流される、5)津波にのみこまれる、の5つのパターンに分類している。そして、5)の例のひとつとして、梅谷みきの体験談を紹介している。分類は、時に無味乾燥であり、時にあまりに残酷である。もちろん、防災に向けての貴重な教訓を得るためには、確かにこのような分類は重要だが、津波体験さえ、その中で差異化され、ある意味、序列化されてしまうわけだ。そして、5)の向こうには、津波にのみこまれて命を奪われてしまう、という「パターン」がある。体験談は生き延びた人しか語れないから、分類6)にはならないが、1)、2)、3)、4)、5)、の続きにもっと深刻な事態があることに、私たちはいやがおうでも気づかされてしまう。
言うまでもないことだが、前述のソナーリ・デラニヤガラもまた、5)に分類される。そして、ソナーリの家族は、5)を超えて、向こう側に逝ってしまった。5)のこちら側に遺されてしまう苦しみについては、ソナーリがあまりにも生々しく証言している。
梅谷みきについては、その後の詳細を私は知らない。調べてみたいが、コロナ禍でもあり、制限がある。22歳の若い女性。海女だったというから、健康で活発で、機転もきき、生命力も強かったことだろう。夫の父親は津波を一緒に生き延びているが、他のご家族は無事だったのだろうか。夫は一緒に住んでいたのか、それとも戦場にいたのだろうか(*2)。死に別れなどしていないだろうか。津波の恐怖など乗り超えて、戦争や戦後の混乱も乗り越えて、豊かな人生を歩んでこられたのだろうか。今も生きておられるなら、97歳である。
だが、その後少しずつJさんは笑顔を取り戻していったのである。きっかけは小さなことだった。あるとき、Jさんは夫とともに家からかなり離れた海岸に行ってみた。大海原と浜風と波の音。人は少なく、空は広かった。
「砂浜にいると安心できるんです。ここで地震にあっても、倒れてくるものはなんにもないでしょう」。Jさんはそう言った。そして久しぶりにすがすがしい気分を味わった。
(安克昌『心の傷を癒すということ』新増補版、作品社、2019年、P.101-102)
災厄にはローカリティがある。神戸出身の私にとって、震災といえば、まずは阪神・淡路大震災である。1995年1月17日未明。直下型地震が神戸を中心に襲い、6,434名が犠牲になった。
冒頭の引用は、震災後のレポートからの引用である。当時、神戸大学医学部精神医学教室の医局長をしており、被災地の心のケアの先駆者となった安克昌(あん・かつまさ)医師によるものである。Jさんの住んでいた地域は地震直後、大規模な火災に巻き込まれ、焼け野原になった。火は彼女が住んでいたマンションのすぐ近くまで迫ってきた。地震の衝撃でドアがなかなか開かず、夫とともに、苦労してなんとか脱出した。だが外はもっと「地獄」だった。火の中を逃げまどっているとき、「助けて!」と叫ぶ人たちがいたが、助けてあげられなかった。避難所にいたJさんに、安医師は出会う。最初は表情が硬く、心を閉ざしていたJさんも、だんだんうちとけて、安医師に心の内面を語るようになった。「今も耳元で“助けて、助けて”という声がするんです。……私も死んでしまえばよかった」。
Jさんの耳から、この声がいつまでたっても離れなかった。Jさんはサバイバーギルトに苦しんでいた。避難所の用事の手伝いをしているときや、夫と話しているときは気が紛れるが、一人になると「助けて」という声が耳について、苦しくなった。夜も、うとうとすると恐怖の光景がよみがえり、また、余震の心配もあって眠りづらい日が続いた(同じ経験をしたはずの夫は、平気なように見えた)。そのJさんが回復のきっかけになったのが、引用に示すように、夫とともに海に行ったことだった。
2020年1月で、阪神・淡路大震災から25年がたった。四半世紀である。その25年の節目として、安医師をモデルにしたテレビドラマがNHK大阪拠点放送局によって制作された。タイトルは、著作と同じ『心の傷を癒すということ』である。2020年1月から2月にかけて4週連続で放映され、その後、DVD化もされた。残念ながら、安医師は2000年に肝臓癌のため、39歳という若さで亡くなっている(私も安医師の友人の一人だった)。在日韓国人でもあった安医師の生育過程や、震災を経て精神科医として成長していく過程、家族への愛情、病におかされ亡くなっていく過程を、丁寧に描いたのが、この番組だった。
ドラマ化にあたって、スタッフの間で議論が分かれたのが海の場面だった(*3)。Jさんをモデルにした結城理恵という人物が登場し、安医師との関わりがドラマにおいても詳しく描かれている。その理恵が回復していくきっかけとなった重要な場面である。事実や原作に忠実でありたいという思いや、当時の関西の人間にとっての海がもつ意味を考えると、そのまま海で撮影をしたいというスタッフの思いは強かった。一方、全国放映される番組で、海を安全なものだと思えない視聴者はたくさんいる。東日本大震災で津波に巻き込まれた人たちや津波で大切な家族を喪った人たちにとっては、とても共感できないせりふに違いない。被災地から遠く離れた人たちの目にも、リアルタイムでテレビに流された津波の映像は、強く焼き付いている。地震が起きた時に海岸に逃げればいいと、番組を見た子どもたちが思い込んでしまうのもよくない。激しい議論が交わされた結果、ロケ地は海から山に変わった。放映されたバージョンは、以下のようなものである。
晴れた空の下、山道を理恵が息を切らし、歩いている。
理恵が「どこまで行くん?」 と聞くと、先を歩いていた夫が立ち止まり、理恵の方を見て笑いながら言う。「ここまでおいで」。
疲れた表情の理恵がようやく夫に追いつき、夫の隣に立ち、一面の野原が広がっているのを見て、息を呑む。
「ここにおったら地震来ても平気や。何(なん)も倒れて来(こ)ぉへんよ」
そう言われた理恵は、おもむろに、野原に座り、そのまま後ろに大の字で倒れ、気持ちよさそうに目を閉じ、「ほんまや」とつぶやく。
(NHK土曜ドラマ『心の傷を癒すということ』脚本・桑原亮子、2020年)
理恵は(というか、Jさんは)、津波にあったわけではない。けれども火の海に巻き込まれたという意味では、火の津波にあったと言えなくもない。何も倒れてこない海、そして野原。延焼が起きることのない海、そして野原。
生き延びた人にしか、手記は書けない。体験を話すことはできない。話を聞いてもらうことはできない。けれども、亡くなった人の分まで、私たちは遺された言葉を読み返したり、そこから新たな作品を生み出したりすることはできる。
私たちは、震災から10年目という時にいる。同時に、震災から16年という時にいる。震災から75年という節目にもいる。また、震災から25年という節目にもいる。そして私たちは、永遠の3月10日に留め置かれている。
私は以前、「当事者からいちばん遠い人を想像することが、逆説的に<内海>にいちばん近く深く寄り添うことになるかもしれない」と、『環状島=トラウマの地政学』の結びに書いた(*4)。<内海>は、震源地や爆心地を中心とした、犠牲者の沈む海、声の出せない人たちの佇む海である。内海はあちこちにある。震源地や爆心地はあちこちにある。
私(たち)はまだ、テキストを消化/昇華しきれずにいる。消化/昇華しきれないまま、テキストが流れ着き、折り重なっていく。
*1:例えば地震調査研究推進本部事務局(文部科学省研究開発局地震・防災研究課)のウェブサイト内の、「東京都(伊豆諸島及び小笠原諸島を除く)の地震活動の特徴」では、30年以内の南海トラフでの発生確率が70〜80%、首都直下地震の対策区域のうちの一つ、茨城県沖での地震の発生確率が80%などとされている。
https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_kanto/p13_1_tokyo(2020年9月8日閲覧)
*2:本文の脱稿後、原資料を閲覧する機会があり、梅谷みきさんは津波にあう前年に結婚したが、夫は結婚式の1週間後に出兵したことがわかった。原資料閲覧の機会を提供してくださった木村玲欧氏に感謝する。
*3:第19回日本トラウマティック・ストレス学会(WEB開催)でも、この話題について議論している。安達もじり、京田光広、宮地尚子「精神科医・安克昌からのメッセージ~NHKドラマ『心の傷を癒すということ』を読み解く」(2020年9月21日ランチタイムセミナー)
*4:宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』みすず書房、2007年、P.215