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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

大震災から1か月後の「福島県浜通り地震」は日本で初めての「正断層」が引き起こした

しもやまだまこと

4月11日、東日本大震災からちょうど1か月後、いわき市田人町を震源とする直下型の余震がいわき市を襲った。震災後に発生した最大級の余震だった。これが「井戸沢断層」が引き起こした地震と知ったのは、3年後だった。
発生した午後5時16分、田人町から5kmほどの所にある実家にいた。
いきなり「ズシン」と大きな縦揺れが1回。M7.0、震度6弱。3.11の時の、5分も続く揺れはなく、まさに「あっ」という間の出来事だった。
居間の折り畳み式のちゃぶ台は足が折れ、上に載っていたしょうゆ瓶が床にころげ落ち、弧を描きながら床に「つー」としょうゆをこぼしていた。
震災の話になると、今でもこの話をする。何度話していても、またする。
私は田人町が大好きだ。それは小学生の頃から、春になると親に連れられ一緒に田人の山中に入り、山菜取りなどをしていたからだった。
でも、4.11が起き、その被害の大きさを知り、「もう田人には行けない」と本気で思った。
それから3年、何の巡り合わせか「田人支所」へ異動となった。それも、「地域振興」の担当として。
田人町はいわき市の中でも人口減少が著しい中山間地域で、震災前には約2千人が暮らしていたが、今は千4百人を切っている。
赴任して最初の仕事は「断層崖出現地への植樹」だった。この余震で田人町には最大2mにもなる地表地震断層(断層崖)が出現したが、復旧工事でほとんどは元通りになっていた。
一方、専門家の調査で、この断層は、明治以降日本で初めて「正断層」が起こした地震であることが分かった。
地域の人たちは、断層という「負の遺産」を防災教育など「地域振興」に役立てたいと考えた。
地元紙記者も、植樹など断層を伝える活動に興味を持ち、取材に来た。
同じ頃、県では、後世に伝える「震災遺産保全活動」が活発になり、県立博物館では「断層」を「保存したい」と話を持ち掛けてきた。
博物館と地域振興協議会が協働で「断層の剥ぎ取り標本」を作成したり、研究者や大学教授を招いて「断層講演会」を開くなど、さまざまな活動を行った。
そんな関係で、自分も断層についていろいろ調べ、知見を深めることができた。
こうなると、今度はこれを広めたいと思う気持ちが強くなり、今でも断層が残る現地で説明会を開催するなど、断層を知ってもらう活動をした。
4年がたち、田人支所から「異動」となった。こうなると、自分が主体となって活動を継続するには「時間」もないし「資金」もない。困った。
そんな中、今年に入り、市は「震災伝承館」を開館し、市内の語り部の方々に「震災を伝える活動」をお願いした。
自分は語り部ではないが、「講話」する機会をいただけた。
渡りに船、とばかり、今は田人の語り部さんと一緒に、月に1回、地震と断層の話をしている。息の長い活動となるように…。

自己紹介や手記の背景

いわき市役所で働く地方公務員で、現在はいわきアリオスに勤務。
震災では、いわき市も震災の津波の被害で約300人の方が亡くなっています。
それに加え、いわき市の場合、震災のちょうど1か月後にも、マグニチュード7.0という大きな直下型の余震があり、田人町では段差が最大2mにもなる地表地震断層が出現しました。普通なら全国ニュースになるような巨大な地震なのですが、震災の余震として捉えられてしまったため、あまり知る人は少ないというのが実情です。
私は、仕事の関係で、この地震を深く知ることになったことから、現在では、この地震を知ってもらう活動を細々と続けています。

大震災から1か月後の「福島県浜通り地震」は日本で初めての「正断層」が引き起こした

しもやまだまこと

自己紹介や手記の背景

いわき市役所で働く地方公務員で、現在はいわきアリオスに勤務。
震災では、いわき市も震災の津波の被害で約300人の方が亡くなっています。
それに加え、いわき市の場合、震災のちょうど1か月後にも、マグニチュード7.0という大きな直下型の余震があり、田人町では段差が最大2mにもなる地表地震断層が出現しました。普通なら全国ニュースになるような巨大な地震なのですが、震災の余震として捉えられてしまったため、あまり知る人は少ないというのが実情です。
私は、仕事の関係で、この地震を深く知ることになったことから、現在では、この地震を知ってもらう活動を細々と続けています。

連載東北から
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