海仙人
避難所で眠れない夜を過ごし、空が白み始め、陽が昇ると暖かさを感じ少し身体がゆるんだ気がした。この町公民館は我々海際の生活者の指定避難所になっていて世帯人数分の毛布、カップヌードルなどを備蓄していた。何より大きな災害が起きたら、この公民館に集合し安否を確認することになっていた。この日は住民以外の避難者も居たので80人位は集まっていた、被害の状況は分からぬものの、この場所で何日かは過ごすのだろうとぼんやり考えていた。
ところが12日朝早くに警察が来て、この建物を開け渡せと告げていった。病院が壊滅したのでここを病院として使うので。自宅を失い行くあてもない我々だったが、その目的に従った。
両親を車に乗せ少し走らせていたら、同級生のお母さんと知り合いのお婆さんが歩いていた。行くあてのない私たち家族だったが、寒さもあったので声をかけ車に乗せた。市境の峠の入り口付近に車を止めて、地震の時のことなど語り合っていた。お年寄りたちが経験したチリ地震津波を遥かに超えている事は感じていたが、それ以上の被害がどういうものなのか想像もできず、どのような対応をしたら良いのかも分からずにいた。その場所は峠の入り口、高速道路のインター付近だったが、車が行き交う音も、我々以外の人の声も、里山に住む小鳥のさえずりも、風で揺れる木々の音さえも無い無音の世界だった。どれくらいの時間が過ぎたのだろう。突然、我々の前に真っ赤な車と真っ白な車両が大隊列をなし高速道路から下りてきた。それは山形県内各地域の消防車、救急車で編成された隊列だった。昨日の段階で作られ、道路事情もままならい状況の中、夜通し走って来たのだろう…、そう考えると熱いものがこみ上げて来た。それから少し経って近所の男が軽トラでやって来た。
ガス店に勤めていたYさんがこの地区の区長と交渉し、K地区公民館が借りれることになったから公民館に集合とのこと。公民館に着くと徐々に我々N地区住民は集まって来ていた。顔を見合わせ安心する者、急き立てるように話をする者、状況がまだ飲み込めずただあたふたとする者などそれぞれであった。私は『あぁ、あの人元気そうだ。あの人は随分年をとったなぁ。子どもの頃以来だなぁ』などとぼんやり思っていた…。
ふと隣の家のTさんが地震の際に居た親戚が慌てて家に戻ったが大丈夫だっただろうか? と口にした。私も知っている人なので心配になった。そう言えば同僚、隣の会社の人、まだ顔を見せない近所の人、高田町の友人知人…。
この時点では、地震から津波までの時間が十分あったので、その後知る犠牲者の数など頭によぎりもしなかった。
3月11日が地震・津波の日に対して3月12日が長い長い被災者としてのプロローグ。記憶の中で日付と記憶がはっきりしているのはこの2日位であとは全てが新しく激しく、経験のない、怒涛の日々であったような気がする。アフター東日本大震災の始まり。
海仙人
3月11日が地震・津波の日に対して3月12日が長い長い被災者としてのプロローグ。記憶の中で日付と記憶がはっきりしているのはこの2日位であとは全てが新しく激しく、経験のない、怒涛の日々であったような気がする。アフター東日本大震災の始まり。