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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

空に聞く

H.A

あのころ、毎晩のように星空を見上げては問いかけていた。
「どこにいるの?」

海の近くで暮らしていた両親が、あの日行方不明になった。
いつもの避難所に行ったであろう両親。しかしその避難所も津波に襲われてしまっていた。

翌日2人の弟がやってきて、学校の体育館に遺体が運ばれているらしいと言った。そして「俺たちが行って探してくる。姉ちゃんは行かない方がいい」。弟達は私を気遣ってそう言った。だけど、待っても待っても両親は見つからず、毎晩毎晩星空に問いかけていた。

1か月が過ぎたある日、「確認してほしい遺体がある」と下の弟から連絡があり、姉弟3人で安置所へ向かった。その頃には安置所は1カ所にまとめられていて、そこは車で30分くらいの、内陸部にある隣町の総合体育館だった。館内にはたくさんのご遺体が遺体袋に入れられて並べられていた。父と思しき遺体を係の人に見せてもらった。袋を開けて身体を少し動かした時、一瞬だけ赤色の鼻ちょうちんがプーっとふくらんだ。まるで「俺だ」とでも言っているかのようだった。けれど、顔は腫れ上がり、父だと確認できる所持品もなく、誰も絶対父だと言い切ることができなかった。そのころ遺体の取り違えも起こっていたため、DNA鑑定をして結果を待つことにした。

その後は母を探すために私も安置所に通った。あのころこんな会話が飛び交っていた。
「見つかった?」「よかったね」
生きて帰ってきたわけでもないのに何がよかったのか……だけどそれが普通だった。見つかっただけましだった。
「お宅は何人?」「うちなんて5人……」
行方が分からない家族の人数である。

しばらくして、母ではないかと知人が教えてくれ確認に行ってみると棺が並べられていた。棺の上に置かれた写真や推定年齢、特徴などが書かれたメモを見て、これは違うと思い中は確認せずDNA鑑定だけをお願いして帰った。翌日、上の弟が「やっぱりもう一度見たい」と言い、一緒に安置所に行くとすでにその棺はなくなっていた。火葬に出された後だった。

私たちは2人のDNA鑑定の結果を待つしかなかった。その頃はDNA鑑定がとても混みあっていて、結果が出るのにかなり時間がかかった。

父の鑑定を依頼した時、腐敗が進むので結果が出る前に火葬されるかもしれないと言われていた。だけど、他のご遺体はどんどんなくなっていくのに、なぜか父はいつまでもそこにいた。いよいよ安置所が閉鎖されることになり、残ったいくつかのご遺体は市が引き取り火葬されることになった。私たちは市にお願いして火葬に立ち会わせてもらい、遺骨も拾わせてもらった。ありがたかったけれど、父の名前ではなく、遺体番号のまま荼毘に付されなければならなかったことは悔やまれた。父の遺骨は市の職員が引き取り、身元不明者の遺骨が安置されているお寺に預けられた。

火葬から4日後、鑑定を依頼してから1か月が過ぎた頃、警察から父と母で間違いないと電話をもらった。電話を切ったあと、なぜかあの安置所の匂いが辺りに漂っていた。翌朝すぐにお寺に行き、両親を連れて帰ってきた。

遺骨と一緒に、身に着けていた衣類と「特例死体埋火葬許可証」が渡された。母のそれには火葬の場所は千葉県と記されていた。当時、地元の斎場だけでは間に合わず、県内外の斎場が火葬の受け入れを引き受けてくれていたことは知っていたが、まさか母が千葉まで行っていたとは……。知らない土地でひとりぼっちで、番号のまま旅立ったことを思うと、かわいそうでならなかった。

ずっと心の中に引っかかったまま時間だけが過ぎ、2017年、思い切って千葉の斎場を訪ねた。受付で事情を話すと、当時を知る係の人が館内を案内しながら当時のことを話してくれた。火葬は夜間に行われたこと、火葬の際は複数の住職さんがお経を上げ、多くの地域住民の方が参列し、手を合わせて見送ってくれたこと等を教えてくれた。千葉の方々に手厚く見送っていただいたこと、心からうれしくありがたかった。後日、係の方が火葬の様子を記録した写真をファイルにして送って下さった。

あれから10年が経とうとしている。
新しいまちでの営みの中で、ふと彼らは今のまちを知らないんだと気づいてハッとする。そして、私はあれから10年生きたのだと気づかされる。けれどどれだけ時間が経っても、あの時迎えに行かなかったこと、早く見つけてあげれなかったこと、名前ではなく番号のまま旅立たせてしまったことへの悔いはずっと消えることはない。
今でもあの日々を思い出しては、とりとめのないことを空に聞いたりしている。

自己紹介や手記の背景

あの震災から10年の節目に、今まで心の奥深いところにしまい込んでいた記憶の一部を書き留めておこうと思いました。こんなことがまさか自分の生きている時代に起こるとは思いもしませんでした。あたりまえの毎日があたりまえに続くものだと思っていました。非日常の毎日から10年かけて少しずつ少しずつ日常が戻ってきています。記憶が薄れてしまわないうちに大切な家族の最期を綴りました。

空に聞く

H.A

自己紹介や手記の背景

あの震災から10年の節目に、今まで心の奥深いところにしまい込んでいた記憶の一部を書き留めておこうと思いました。こんなことがまさか自分の生きている時代に起こるとは思いもしませんでした。あたりまえの毎日があたりまえに続くものだと思っていました。非日常の毎日から10年かけて少しずつ少しずつ日常が戻ってきています。記憶が薄れてしまわないうちに大切な家族の最期を綴りました。

選考委員のコメント

あの日、父と母の姿を見失ったH.Aさん。
毎晩、星空に問いかける。やがて、遺体安置所へ足を運ぶ。そこで、袋に入れられて、番号を付された遺体を見、それが、DNA鑑定に回される経緯など、体験した人だけが語ることができる言葉が胸にしみる。 
しかし、それを超えて読むものにせまるのは、失われた「生命」への思いを抱えつつも、静かにさえ見える筆者の、新たな一歩を感じさせる言葉である。
10年が経って、変わっていくものと、変わっていきようがないものの、静かな二重奏のような文章が胸をうつ(小野和子)。

連載東北から
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