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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

ひとりでよがった、さんにんでよがった

海仙人

同じ地区に住んでいた60余名の共同生活が始まった。公民館だったので畳の広間、調理室、トイレがあったこと、人数が多過ぎなかったことが恵まれた点だった。

それでも最初の3ヶ月間は、極度の緊張からか、みんな常にこわばった顔をしていた。たまに不安やぼんやりとした表情をする程度だったが、緊張はふとした事で怒りに昇華した。

ある日、普段は穏やかな娘さんが、父親が差し入れられた林檎を盗み食いしたのを見つけ、衆前で激昂した。「集団生活をしてるんだから身勝手な行動するなぁ!」と。朝食がまだ満足なものが出ない時期だったので、その高齢の父親は周囲にひどく同情された。

睡眠に関してもいろいろトラブルがあった。7割位が高齢者だったので、早くから就寝する。とてもそんな時間に眠れない人たちは、自然に外に居るようなり、ドラム缶のストーブで身体を温めながら時間を潰していた。普段の就寝時間になり館内に入り眠り始めた頃、いびき、歯軋りなどの合唱が始まり、時々大きな寝言が館内に響き渡った。

また、灯も無い真っ暗な中、代わるがわるにトイレに行くので、寝ている人を間違って踏みつけたり、自身がつまづいて転んだりし、呻き声、叫び声、詫びの声が入り混じっていた。

私の足の悪い父も夜中にトイレに起きるからと周りを気遣い廊下への出入り口付近で寝起きしていたが、睡眠不足と寒さで体調を崩してしまった。

それでも様々な行事、お祭り、日常の生活の中で、顔見知りの人たち。顔も見たことない人たちが集まった避難所に比べれば緊張が緩くなるのは早かったかもしれない。

避難所には神戸市から保健師が派遣されていた。最初は聴き慣れない言葉に興味を持ち耳を傾けていた。もともと性格がストレートな浜のおばちゃんたちにズバズバ物を言う姿にハラハラしていたが、6月頃から古くからの知り合いのようにうち溶けあい、時折、笑い声も起きていた。

避難者同士も少しずつ、家族や親族の安否、近所の人の消息などの情報を共有していった。共通の知り合いの姿が見えないと認識していても、それが亡くなったのか、病院に入院してるのか、子供や親戚の所に避難しているのか……。聞けば良いと思うかもしれないが、その頃まで怖くて聞けないでいたのだ。

その頃の会話で聞いたのは「1人でよがったごど」「3人でよがったごど、見つかったもの」という言葉。災害で家族が犠牲になり良いはずがなかった。しかし、我が市では5人以上犠牲になった世帯が何軒もあり行方不明者が3桁を遥かに超えていた。

その時は当たり前のように使っていたが、他に慰める言葉が見つからなかったからでもある。非日常の世界では異常な言葉も日常に使うようになるものだ。

自己紹介や手記の背景

同じ地区に住む60余名の共同生活の始まり。極度の緊張と非日常での世界での時間経過と変化。

ひとりでよがった、さんにんでよがった

海仙人

自己紹介や手記の背景

同じ地区に住む60余名の共同生活の始まり。極度の緊張と非日常での世界での時間経過と変化。

連載東北から
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