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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

2011年3月12日(土)

山本浩貴

東京の出張先で被災した。15時からの会議は激しい余震の中実施された。直前にテレビで「日立市:震度6」と見たので、気が気ではなかった。妻は身重で、1歳の娘とどう過ごしているのか。一刻も早く日立市の自宅に帰りたかったが交通網は寸断され、帰宅するのは困難だと考え、都内で一夜を明かした。

今朝、常磐線は我孫子までは行けるはずだ。そこからレンタカーなら帰れるかもしれない、と思いついた。

上野駅のコンコースに夥しい数の帰宅困難者の列を目の当たりにし、愕然とした。これだけの人が不安な一夜を過ごしていたのか。これに並び2時間経過したが、10メートルも進まない。しばらくしてホームに降りる階段近くまできた。ここで、コンコースの柱を挟み、別の人の塊があることに気づいた。

すると左の列から、「お前ら、割り込みをするな!」「正直者がばかを見るのは変だろう。こっちは2時間も並んでるんだぞ!」という怒号が浴びせられた。我々が割込みしている、と勘違いしているのだ!
全く釈然としなかった。「我々も2時間待ったのだ。係員に常磐線の列だと言われたのだ」と。しかし誰も応戦はしない。懸命だ、と思う。こんな時に無用な言い争いは避けたい。
係員が堪らず「左の列の方、ホームに降りていただきます!」という案内をした。そのとたん、右も左も関係なく列が動いた。もう誰にも止められない。左の列から、「あーっ!」という悲鳴が聞かれたが、お構いなく、我孫子行の快速電車に飛び乗った。

我孫子駅を降り、レンタカー店に向かった。日立方面もレンタルできますよ、と。これは大変にありがたい。車の準備の間、駅前のハトのフンだらけのベンチに腰掛けていると老紳士が隣に座ってきた。スーツ姿の私に「汚れませんか?」と話しかけてくる。
「いえ、地震は結構揺れましたか?」
「戦争に比べたら、どうということはない。小学生のころ、学校に訓練で軍が入っていてね。新米の兵隊が、上級のやつらに『歯をくいしばれ!』って言われて、ぶん殴られるのを怯えながら見ていたもんだ」
こんな時に、戦争の混乱の話を聞かせてくれる。この経験があるから今回の震災を乗り切れるのだ。車を借りるので、と言ってその老紳士と別れた。貴重な戦争の話を聞けて、奮い立った。

車を走らせ、国道6号に入る。夕暮れとともに信号が点灯していないことに気づいた。停電だ。いよいよ被災地に足を踏み入れ、気が引き締まる。水戸の高架道で異変を感じ始めた。路面に亀裂が入り、段差が生じている。ここから北は、上りは通行止めになった。もし下りだったら、と思うとぞっとする。

21時。ようやく家に辿り着いた。皮肉なまでにきれいな星空が見える。玄関を叩くと、妻と娘が「お帰りー!」と迎えてくれた。2人は真っ暗な中、懐中電灯やろうそくをかき集めて部屋を照らしていた。家族がひとつになり、とても安心する。帰ってきて良かった、と心から思えた瞬間であった。

自己紹介や手記の背景

東京で帰宅困難になりましたが、その帰宅の道中は私にとっては当時から忘れられない体験でした。この体験を忘れないようにと、書き留めておいた日記がありました。震災10年ということで、3月になったらSNSに公開しようと思っていたところ、この「10年目の手記」のことを知り応募してみようと思いました。元の日記は6,000字あり、今読んでも生々しく当時のことを思い出すのですが、今回はそのエッセンスを投稿させていただきます。一晩中、家に帰れず疲れ切った人々の群集心理、戦争体験を語ってくれた老紳士、車を貸してくれたレンタカーショップなど、奇跡的な出来事がいくつも重なり、帰り着くことができ、今でも貴重な経験です。

2011年3月12日(土)

山本浩貴

自己紹介や手記の背景

東京で帰宅困難になりましたが、その帰宅の道中は私にとっては当時から忘れられない体験でした。この体験を忘れないようにと、書き留めておいた日記がありました。震災10年ということで、3月になったらSNSに公開しようと思っていたところ、この「10年目の手記」のことを知り応募してみようと思いました。元の日記は6,000字あり、今読んでも生々しく当時のことを思い出すのですが、今回はそのエッセンスを投稿させていただきます。一晩中、家に帰れず疲れ切った人々の群集心理、戦争体験を語ってくれた老紳士、車を貸してくれたレンタカーショップなど、奇跡的な出来事がいくつも重なり、帰り着くことができ、今でも貴重な経験です。

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