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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

兄の思い出

吉田健太

2011年3月11日、私は青森県の勤務先で打ち合わせ中だった。建物が揺れ、天井から照明が落ちて割れた。安全なところへ避難したが停電している状況でTVは見られなかった。まわりは何とか情報収集をしようと試み、その中の誰かのスマートフォンでは津波の映像が流れていて、皆がそれを見ていた。怖くて私だけがそれを見ることができなかった。

その後、私のふるさと陸前高田市が壊滅的な被害を受けたということを知っても、私はなぜか安心していた、家族や親せきは無事だろうと。今にして思えば根拠のない奇妙な自信があった。車のガソリン不足で帰れない私に、母親から衛星電話で短い通話があった。「お兄ちゃんが見つからない。」私はその震えた声を聞いても、兄の無事を信じていた。「どこか遠くに流れ着いて、帰ってこられないだけだ。」「記憶喪失になっているのだろう。」今にして思えばマンガやドラマのような展開を本気で信じていた。

兄とは5歳差で私が小学1年生の時に小学6年生、それ以降は私が中学生の時、兄は高校生といったように学校が同じになることはなかった。年齢が離れていることもあり、とにかく優しく喧嘩した記憶がないが、学生時代に一緒に遊んだ思い出も少ない。大人になって兄は陸前高田市役所に勤務、結婚して子供もでき、親の側にいる。一方で私は職を転々とし、体調も崩している状況で劣等感に苛まれていた。連絡することもあまりなかったが、2010年に電話したのを憶えている。

震災から約1週間後に車で陸前高田へ、故郷の変わり果てた姿に呆然とした。カメラを持って行ったが1枚もシャッターをきることができなかった。ようやく家族に会い話を聞き、死体安置所に通うことで、初めて兄が死んでいるかもしれないという現実を突きつけられた。さらにその数週間後、兄は遺体として発見された。

陸前高田に帰ってきた私に、様々な人が声をかけてくれる。当初は兄と間違えられ、その後は以前お世話になったという話や、昔の思い出を語ってくれる方もたくさんいた。2020年になっても「今はどこの部署にいるの?」と兄と間違えた方から声をかけられた。その一つ一つが兄の新たな思い出になっていく。話してくれる方には感謝の気持ちでいっぱいになる。これからも兄の思い出を大切にしていきたい。

自己紹介や手記の背景

岩手県陸前高田市出身で、2011年秋に陸前高田市に帰ってきました。これまで兄のことを話してくれた方々に感謝しています。その気持ちを忘れないように改めて手記を書きました。

兄の思い出

吉田健太

自己紹介や手記の背景

岩手県陸前高田市出身で、2011年秋に陸前高田市に帰ってきました。これまで兄のことを話してくれた方々に感謝しています。その気持ちを忘れないように改めて手記を書きました。

選考委員のコメント

この文章の最後の一言、「これからも兄の思い出を大切していきたい」……この一言が心を打つ。同じような思いでいる人たちは、きっとたくさんいるにちがいない。
その人たちが「思い出を大切にしていきたい」という時、もう思い出しか残されていないという、その痛いほどの現実の悲しみは、すでに、未来の「希望」へとつながる言葉として響くし、そうであるのだと、心から願う(小野和子)。

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