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特集10年目のわたしたち

10年目の手記

“青い鳥のように”

荒川雪野

死んだ人のことを、生きている人が忘れなければ、その人は生き続けているのだ。

そんな話をどこかで聞いたことがある。とすれば、わたしは、彼を忘れてはならないと改めて思うし、彼が目指した世界に、わたしが生きているうちに近づきたいとも思う。

2011年3月11日。昼、わたしは職場で、『仙台市史』の「宮城県沖地震」の項目を読んでいた。初夏には発行されているはずの『宮城の地誌』にぜひ入れてくださいと頼んだテーマ「宮城県の災害」。限られた紙幅で何を記すか悩みながら、開いたのがその項目だった。32年前のその日に、幼くしてブロック塀の下敷きになった同級生を思い出しながら。

会議の時間が来て、本を閉じ、会議室に座ってしばらく経った14時46分。わたしは同僚とともに後背湿地の緩い地盤の上で流されるように揺さぶられていた。わたしが覚えている「宮城県沖地震」の揺れとは違う、そのいつまでも止まらない大きな横揺れの中で、独り、揺れが収まった後、どう行動すればいいかを、さまざま考えていた。でも、津波が来るなんて考えもしなかった。内陸育ちで海を知らないわたしだから。

そして、その津波で、やはり内陸育ちの彼が、海に面した、けれども本当に高台の職場で、老夫婦を救おうとして津波の渦に呑まれるなど、思ってもいなかった。

大学の同期で、海辺に勤めた彼は、その街を、街の人たちを愛し、子どもたちの成長に全力を尽くしていたのだった。学生時代から平和運動に力を注いでいたわたしは、行く先々で彼の姿を見かけるようになり、学生時代には話さなかったような足元から世界までの平和について、彼と話ができることに驚いた。とはいえ、ふだんは離れているから、日常に忙殺されて、ほとんど連絡も取っていなかったけれど。

それが、震災の前日。たまたま、わたしはツイッターを開き、彼の、教え子に向けた旧いツイートを見たのだ。“青い鳥のように”という一言。どういう意味だろう、と思った。

その2日後。彼は、勤めた街の人たちが手に入れてくれた数少ない棺に納まり、あの混乱の中で、無事葬儀も執り行われた。ようやくガソリンが手に入った4月の初め、わたしは大学の同期と2人で、初めて彼の実家に向かった。彼と同じ仕事をしていたご両親は、わたしたちの思い出話を聞きながら、ああ、初めて聞く話ばかりだ、とほろりと笑った。きっと彼は、忙しく飛び回って、いろんな人の青い鳥になっていたんだろうな、と思った。その後、彼の教え子たちともつながって、彼が彼らの心の支えであったことも知った。

わたしも、一人でも多くの誰かの青い鳥になろう、と決めた。それが、彼を生かすことだと。そして、わたしも命の果てまで生き切ることだと。

10年経って、わたしは再び『宮城の地誌』を仲間と書いている。未来の命のために。

自己紹介や手記の背景

幼いころからいくつも体験した災害や、いじめや、死にそうになった事故などを通して、どうやったら強かに、しなやかに、そして助け合って幸せに生きていけるのか。そのことをずっと考えて、子どもたちとともに生きる、今の仕事に就きました。そして「次の宮城県沖地震」の時は、誰も死なせないと願って、できることを試みていましたが……
心ならずも亡くなった人たちが、誰かの心に生き続けられるように、そして災害で、事故で、争いで、望まずして亡くなる人がいなくなるような世界を目指して、ハチドリの一滴を運び続けようと、震災を経て改めて誓いました。彼と、仲間たちと、たとえこの命尽きてもなお。

“青い鳥のように”

荒川雪野

自己紹介や手記の背景

幼いころからいくつも体験した災害や、いじめや、死にそうになった事故などを通して、どうやったら強かに、しなやかに、そして助け合って幸せに生きていけるのか。そのことをずっと考えて、子どもたちとともに生きる、今の仕事に就きました。そして「次の宮城県沖地震」の時は、誰も死なせないと願って、できることを試みていましたが……
心ならずも亡くなった人たちが、誰かの心に生き続けられるように、そして災害で、事故で、争いで、望まずして亡くなる人がいなくなるような世界を目指して、ハチドリの一滴を運び続けようと、震災を経て改めて誓いました。彼と、仲間たちと、たとえこの命尽きてもなお。

連載東北から
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